8.4 マルチメディアおよび高度情報通信ネットワークへの期待
「形」指導の実現のためには,つぎの二重の課題をクリアしなければならない。
ひとつは,あたりまえであるが,「わかる」指導が立たなければならない。そしてもうひとつは,「おもしろい(内容が好まれる)」指導が立たなければならない。“将来破綻したくなかったら,いまはがまんしてこれの理解に努めろ”式は,いま/これからの時代には効かない。がまん・忍耐を要求しない──学習者が自らのめり込み,努力が忍耐にならないような──指導法が立たなければならない。これらは可能か?
わたしは,既存の指導メディア(教師も含めて)の上で教師が手練手管を発揮するという形では,現行以上は望めないと考えている。良かれ悪しかれ,現行は時代という基盤構造の上でのピークである。ブレイクスルーは基盤構造の革命という形でしか望めない。
現在,この基盤構造の革命が進行している。「情報革命」,「メディア革命」といった言い回しで表現されているものが,それである。
教授/学習メディアは,これまでの「黒板とチョーク」,「紙と鉛筆」,「文字テクスト」から,「マルチメディア」になる。学習材は,これまで各学校が物理的に蓄積,保管するものであったが,これからは情報通信ネットワークの上で流通するものに変わる。したがって著しくは,「どこそこの学校の生徒」ということに意味がなくなる。
わたしは,「形」指導(=「本物」の指導)はこのような情況変化をまってはじめて一般者に向かうものになると考える。(実際,「形」指導の実現を展望できる時代に間にあったことを,自分にとって幸運と感じている。)
「形」指導がマルチメディアおよび高度情報通信ネットワークをまつということの意味は,つぎのようになる。
先ず,「形」指導の教材は,学習者が「形」を簡単に直観できて保持できるものでなければ,一般者のものにはならないということである。「文字テクスト」はこの意味で,「形」指導の教材として失格である。「形」は映像である──しかも,プロセスのある映像であるから,動く映像ということになる。文字から映像をつむぐことは,飛躍というより,本来無理なことである。ものが最初から違うのだ。映像は映像でしか伝わらない。
マルチメディアは映像としての「形」を直接扱える。逆に,「形」を直接扱えるためにはマルチメディアをまたなければならない。
「形」指導に対する高度情報通信ネットワークの意義は,それが教材の場になるということである。また,教材が良質さを競い,教材が淘汰される環境になるということである。高度に良質なマルチメディア教材が量的に揃う環境は,これしかない。
要するに,「オン・デマンドのマルチメディア教材」というのが,教材のこれからのあり様になる。そして,このような教材を展望できることではじめて「形」指導に勝算が見えてくる。