Up | おわりに | 作成: 2018-01-18 更新: 2018-01-18 |
意味を書いてなくて,記号がやたらうるさいからである。 翻って,「意味を書いてなくて,記号がやたらうるさい」は,数学のテクスト一般の真骨頂である。 数学を勉強しようと思い立った者は,このようなテクストと 即ち,初学者はこのようなテクストを「数学的才能」と思ってしまうのである。 ここに,数学学習の不幸がある。──翻って数学教育の課題がある。 初学者は,無用に挫けたり絶望しないために,数学のテクストがなんでこうなのかを知っておく必要がある。 意味を書いてないのは,意味を書くということを知らないからである。 意味を書くということを知らないのは,意味というものがあることを知らないからである。 意味というものがあることを知らないのは,<意味を示されたことがない>に慣らされたからである。 数学学習では,だれもが<意味を問う者>から出発する。 しかし,その問いが答えられるということはついぞ無いために,意味を問うことを自ら引っ込めるようになる。 そしてこれが習い性になってしまうのである。 初学者の目に「数学的才能」と映るものは,多くが,<意味を問うことを自ら引っ込めて数学をやれる才能>である。 <生半可ができる才能>というわけである。 それは,「要領がいい」と表現される才能の類である。 「記号がやたらうるさい」のは,自分で論をつくると,自ずとこうなってしまうということである。 初学者は,自分の勘違いで挫けないために,他人の書いた記号は読めないのが当たり前だということを,知っておくことが肝要である。 数学のテクストは,読めないのが当たり前なのである。 意味を書くとは,単純なことであって,それは絵を描くということである。 実際,意味がわかっているとは,巧い絵を描けるということである。 記号をうるさくしないためには,「記号をうるさくしない方法」を考えられることが必要である。 翻って, 記号をうるさくしない方法は,テクストを階層構造にすることである。 意味を最上階において,証明などは最下層にもってくる。 数学の力は,「図説」と「テクストの構造化」の才に示される。 主題の意味を理解していないとできないわざだからである。 <数学の力>と<生半可ができる才能>は,ここではっきりと分かれる。
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