Up はじめに 作成: 2013-01-25
更新: 2014-04-18


    生徒からの「学校数学の勉強は何のため?」の問いは,どう答えることになるか?
    ここで,生徒は多様である。
    授業/学校数学も多様である。

    そこで,この問いをつぎのものに画定する:
      自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?
    そして本論考の立場は,この問いにつぎのように答えるというものである:

    しかし,この答えは,まだ問いを収めるものにはならない。 「得」の「なに」を答えただけで,「どれだけ」を答えていないからである。
    よって,これにはつぎの問いが続く:
      自分の得は,他と比べてどんな?


    実際,授業は教員が自分本位につくるものになる。
    そして,授業は生徒にとって所与である。 生徒は授業を選べない。
    そこで,自分の勉強がどの程度のものか,心配になってくる:
      自分の学校数学の勉強とこれの得は,他と比べてどんな?
      自分の場合をどう受けとめたらよいか?
    あるいは,生徒は授業を問わないから,学校教育に携わる者が,生徒に代わってこの問いを立てる者にならねばならない。


    他と比べてどんな?」「自分の場合をどう受けとめたらよいか?」の答えをつくるためには,授業/学校数学の「多様性」の構造的捉えが必要になる。

    「多様性」は,つぎの多様性の複合である:
      1. 教員の授業力の多様性
      2. 授業の場 (生徒・学級・学校・地域)の多様性
      3. 学校数学の多様性

    この多様性は,優劣ではない。
    授業は,特個である。
    授業の「多様性」は,優劣ではなく,特個の様々である。

    そして,子どもは授業を選べない。
    多様性の中の一点である授業のどれが,自分の受ける授業になるか──それは「授業運」である。

    こうして,「他と比べてどんな?」「自分の場合をどう受けとめたらよいか?」の問いに対する答えは,「授業運」である:
    いまの授業に遭っているのは,あなたの運である。
    あなたは,他と比べたくなる。
    すると,いろいろな他が現れる。
    他がよく見えることもあるし,自分の方がよく見えることもある。
    単純に「当たり外れ」は言えない。

    問題は,この先何が言えるかである。
    本論考は,「他と比べてどんな?」「自分の場合をどう受けとめたらよいか?」の問いに対する答えとして,つぎを言おうとするものである:
      自分の場合で,ベストに成長することを考えればよい

    これは,「学校数学は何のため?」を,最後は個の主体性 (<主体の計らい>) に返すというものである。
    但し,最もベーシックな (あるいは「中庸」の) 返し方になっている。
    実際,<主体の計らい>は「個の多様性」を現す。
    気にしないことにしよう」もありだし,いまの自分の立場を自ら変える行動に移るもありである。