Up | 教員はどんな授業をつくるか | 作成: 2012-09-30 更新: 2012-10-02 |
その授業力の低い教員の授業は,以下のようになる。 (1) 「余計をやって,肝心をやらない」 授業は,生徒の<わかる>がゴールである。 このゴールにいたるために必要なプロセスをつくるとき,それが「授業」になる。 ( 数学の授業はどんな構成に──授業の基本形) 授業は,一つのストーリーの実現である。 このストーリーの実現は,一定の時間を要する。 この時間が,「授業時間」である。 授業,そして授業時間は,結果である。 しかし,授業力の弱い教員にとって,授業とは,先ず授業時間のことである。 授業設計は,授業時間が埋まってくれる内容を,用意することである。 授業時間の埋まらないことが,いちばんの恐怖になる。 そこで,詰め物を,過多になる程度に,いろいろ捻り出す。 授業は,過多に用意した詰め物を,順番に提示していくことである。 授業中は,用意した物を使い切って時間の余ることが,いちばんの心配になる。 繰り返すが,授業時間の埋まらないことが,いちばんの恐怖なのである。 この結果が,「余計をやって,肝心をやらない」授業である。 ──ここで,「肝心をやる」とは,「ストーリー実現に必要なことを淡々とやる」である。 (2) 「何の授業かわからない授業」をやる 教員は,教える内容を実際に捉えているかどうかも危ういのに,その上さらに,「教えてはならない」──「授業は生徒主体に進め,教師の役割は生徒の活動を支援すること」──の思想をもつ。 「生徒に考えさせる」も,この意味でとらえる。 「教えてはならない」は,「教えようと思えばいつでも教えられる」「教えたら一瞬で終わり」の裏返しである。 しかし,教えることは,そのプロセスを理詰めで進め,いろいろ練習を課して,達成されるというものである。 「生徒に考えさせる」も,「教える」に対立させるものではなく,「教える」の要素 (必須要件) になるものである。 しかし,件の教員には,このことがわからない。 「教えてはならない」「授業は生徒主体に進め,教師の役割は生徒の活動を支援すること」の授業は,どのようなものになるか? 「何の授業かわからない授業」である。 (3) 展示物・配布物が多い 授業力の弱い教員は,「生成」を授業の形にできない者である。 予め用意した物を順番に提示していくことを,授業の形にする。 内包的にでなく,外延的に授業をつくるわけである。 すべてつくり込んでおかないと,授業できない。 結果,黒板に添付,プリント配布,具体物の展示・配布,画面ディスプレイが,授業の形態になる。 このような教員は,展示物・配布物が多いことを,授業力の弱さから出てくるものとは思っていない。 却って,これをよい授業の形であるとしている。 展示物・配布物の無い/少ない授業を,逆に,批判する。 この教員のわかっていないことは,学習がカラダづくりだということである。 カラダは不自由なものであるから,カラダは基本動作をしっかり鍛錬するようにしてつくる。 そしてこの鍛錬に最もふさわしいメディアが,実は「黒板とチョーク」「ノートと鉛筆」である。 展示物・配布物は,これの<功罪>を考えるときは,「鍛錬をパス」の<罪>の方が大きくなる。 (4)「机間巡視」「グループ作業/コミュニケーション」を,授業の形として頼みにする 授業力の弱い教員にとって,「机間巡視」「グループ作業/コミュニケーション」は,「授業時間を埋めるもの」として,ありがたいものになる。 これをきっちり用いる。 必要がなくとも,きっちり用いる。 |