Up | <数は量の抽象>の沿革 |
このようなものが,どうして学校数学になることができたのか? これを理解するためには,学校数学の歴史を振り返ってみる必要がある。 時代は,戦後の反権力・反体制運動の時に遡る。 運動は,各領域・分野において権力・体制への対立軸づくりを作業するものになる。 学校教育は,自ずとこの運動の最重要領域になる。 各教科で,対立軸づくりが行われた。 学校数学に対しては,数学教育を唯物論に従わせることを,権力・体制への対立軸にした。 なぜ唯物論かというと,その時代の反権力・反体制運動のイデオロギーが唯物論のものだったからである。 そして,物から数を導いてみせることが,これの作業とされた。 この作業にどうして道理ないし勝算を感じることができたのか? ここには,いろいろな要素と,歴史の偶然の妙というものがある。 《物から数を導く》の発想では,カントールの集合論が強力な理論になると目された。 「集合の基数」が,物から数が導かれる理屈になると思われたのである。 しかも,カントールは,自分とビッタリ重なり合うところがあるように感じられた。 カントールには,クロネッカーから権力による迫害を受け精神を病んでしまうというストーリーがある。 そして,クロネッカーは,物から浮いた「数え主義」──権力・体制の学校数学の「数え主義」──の張本人である。 こうして,実にうまく符合する格好で,善玉・悪玉のストーリーができあがる。 <数は量の抽象>は,数学ではなく,イデオロギーである。 <数は量の抽象>は,イデオロギーとして勢力・影響力を増し,そして学校数学になる。 このとき,<数は量の抽象>は<数は量の比>を負かして学校数学になる。 そしてまったく拙いことに,数学は,負かされた方の<数は量の比>にある。 いちどは,<数は量の抽象>と<数は量の比>のせめぎ合いのフェーズがあった。 「割合論争」と呼ばれたものがそれである。 山の分水嶺でどちらの側に落ちるかは,偶然の要素が強く作用する。 しかし,いったんどちらかの側に落ちると,もはや他の側に移ることはできない。 学校数学は,ちょうどこのようになった。 学校数学は<数は量の抽象>の側に落ち,数学の<数は量の比>と永遠に別れることになる。
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