Up <形式の意味モデル>相対主義 作成: 2011-09-22
更新: 2011-09-22


    「かけ算の順序」論争の解釈には,ここに述べるものもあり得る。

    この立場は,<かけ算>という形式を所与にする。
    この所与に対し,ひとは,解釈 (意味付与・モデル構築) を開始する。
    そして,多様な解釈がつくられる。
    解釈には,自ずと巧拙が現れる。
    また,解釈に無理があり,後が続かず宙ぶらりんの状態になった解釈も出てくる。

    この立場は,つぎのように言っていることになる:
      <かけ算>という形式が先ずあり,
       そしてこれに対し「かけ算の数学」が興る。
    これは順序の転倒であるが,西洋哲学の伝統はむしろこれである。
    実際この立場は,構図的にイデア論である。

     Cf. イデア論だと,つぎのようになる:
      <かけ算>のイデアを現すのが,「かけ算の数学」である。
    このとき,<かけ算>のイデアを現している・現し損ねているの別が,「かけ算の数学」の巧拙ということになる。


    この立場は,「かけ算の数学」の相対主義になる。
    この相対主義は,現象学的構造主義と通じるものである。 ──現象学的構造主義は,「出自を忘れる」を方法にする。 出自を見ないことにしたテクスト読解は,読解の相対主義になる。

    この立場を,<形式の意味モデル>相対主義と呼ぶことにする。

    <形式の意味モデル>相対主義は,「かけ算の順序は文脈から一意的に決まるものなのか,決まらないものなのか?」の問いに対しては,つぎのように返すことになる:「その問いは無効である。
    なぜなら,この場合「かけ算の数学」は相対的である。 現前の数学は「かけ算の順序は文脈から一意的に決まる」というものであるが,「かけ算の順序は文脈から一意的に決まらない」数学が現れるかも知れない。


    <形式の意味モデル>相対主義は,「かけ算の数学」を学校でどう教えるかについて,どのように答えることになるものか?

    数学では,<かけ算>は,形式として所与ではなく,導かれるものである。
    この導入プロセスの論述が数学そのものになっており,それが「かけ算の数学」ということになる。
    数学にとって<かけ算>を教えるとは,この「かけ算の数学」を教えることである。

    遠山主義では,<かけ算>は唯物世界の現前である<量の積>を写したものである。
    この写像論が「かけ算の数学」であり,<かけ算>を教えるとはこの「かけ算の数学」を教えることである。

    <形式の意味モデル>相対主義では,つぎのようになる:相対主義のプラグマティズムを論じた上で,<よりよい選択>を示す。


    <形式の意味モデル>の立場は,「数学」に対する一つの考え方に立っている。
    これに対する本論考の「数学」の考え方は,つぎのようになる: