Up 授業観察 作成: 2010-04-06
更新: 2011-10-20


    教員養成コースでは,教育実習の最初として,「近隣の小中学校での授業観察」を授業内容にすることがある。

    この場合,学生は<漠然と見る>になるが,これは仕方がない。
    修行を重ねることによって,授業がだんだんわかるようになる。
    これには,<到達>というものがない。
    教員になっても,「授業の理解」はずっと大きな課題である。

    授業観察は,これ一回で何かを得ようという授業ではない。
    学生は,何かをつかんだ気になるかも知れないが,それは<勘違い>である。

    上手な授業は,<上手>が見えない。
    下手な授業も,学生には<下手>が見えない。
    学生は,下手な授業に,勘違いして感心する。
    学生が「授業の失敗」と受けとるところは,失敗ではない。
    こんな具合であるから,「自分のレベルはこんなもんだ」と思うことが肝要である。


    授業観察は,学生にとって,考える手がかりがつかみにくく,何を観点にしたらよいかわからないものになる。 そこで,わたしの場合は,つぎの観点から子どもを観察してみることを学生に勧める:

      この授業の局面で,子どもはどんな状態でいるか?

    観察している授業を,授業のお手本のように思ってはならない。 それどころか,その授業は,悪い授業かも知れないのである。
    長く教員をやっていれば,指導法のようなものは上手になる。 しかし,つぎのことは遅々として上達しない:
    1. 教える内容の捉え (主題研究)
    2. 生徒を理解に至らせる授業プロセスの実現

    授業にウソやごまかしがあれば,生徒は必ず混迷する。
    だまされてわかったつもりになる生徒は,「できる子」である。
    子どものリアクションは,わりあい信用できる。


    子どもを観察できるためには,観察できる場所に立たねばならない。
    教室の後ろは,観察できない場所である。
    学生は,授業観察は教師を観察することだと思って教室の後ろに立つが,これは間違いである。