Up おわりに  


    学校数学は,<数は量の抽象>である。 学校数学の「数」を考えることは,<数は量の抽象>を考えることである。
    特に,「かけ算の順序」が学校数学の問題として上がってきたとき,これを考えることは<数は量の抽象>の「かけ算の順序」を考えることである。

    「かけ算の順序」の問題化は,「かけ算」の問題化に進む。
    ところで,<数は量の抽象>は,「かけ算」で窮するものになっている。 <数は量の抽象>では,数の積は量の積でなければならず,そして量の積というものは無いからである。
    したがって「かけ算の順序」の問題化は,<数は量の抽象>にとってあまりありがたくないものになる。


    <数は量の抽象>は,唯物論のイデオロギーを基にする。
    唯物論の眼から数学を見れば,数学は観念論である。そこで,「数学は唯物論の立場から建て直されねばならない」が,その時代の現行への対立軸になる。 これが,<数は量の抽象>である。
    なぜこれがすごく大したことのように思われたのかは,その時代に生きてみなければわからない。 時代のムードとはこういうものである。
    そして内容が荒唐無稽でも勝ってしまうのは,「論争」であるからだ。 シンパ・支持者を多くつけたものが勝つ。シンパ・支持者はムードに寄って来る。内容で勝つのではない。

    そしていまわれわれが,学校数学で<数は量の抽象>の奇態な数概念・量計算が生徒に指導されているのを,目前にしているわけである。

    <数は量の抽象>を保守する格好を自ら示しているのは数教協であるが,それ以上に学校数学がこれを保守してきた。
    <数は量の抽象>のアヤシイことは,専門数学を少しやった者ならすぐにわかる。 実際,数学なら<数は量の比>である。 そこで,「<数は量の抽象>は,引っ込みがつかなくて続いているのだ」とわかる。

    この「引っ込みがつかない」に,生徒が付き合わされている。
    「引っ込みがつかない」者たちに生徒が付き合わされることが,「教育」になっている。 <数は量の抽象>は「教育」され,世代的に再生産される。
    「学校数学は永遠に<数は量の抽象>」の構造ができあがっている。

    唯物論のイデオロギーは後退したが,学校数学の「数と量」になって形を残した。 分水嶺のどちらの側に落ちるかを決めるのは偶然だが,一旦落ちてしまえば,<梃子でも動かない>ものになる。

    いま,数学をわかった数学教育関係者で「学校数学が<数は量の抽象>になってよかった」「世代から世代へ確実に引き継がれる形になってよかった」と思う者は,いかほどか?
    <数は量の抽象>の側にいるが,それは引っ込みがつかないためであり,「やってしまった」の感 (後悔) を密かにもっている者も,少なくないはずである。