Up 結論の形 作成: 2013-01-14
更新: 2013-01-15


    算数・数学科で学習主題になっているものは,数学である。
    算数・数学科の学習主題を授業することは,数学を授業することである。
    そしてこれは,教員のできないことである。

    そこで,教員は,授業時間帯を自分のできることで埋めることになる。
    これは,教員が自分本位に授業をつくる者になるということである。
    算数・数学科の授業は,教員が自分本位につくるものである。

    教員にとって,
     自分は,算数・数学科の授業を数学の授業として行うことができない。
     したがって,自分本位に授業をつくっている。
    は,認めたくないものである。
    そこで,教員においては,自身に対しこの事実を隠蔽する<合理化>の心理が働くことになる。
    つぎが,<合理化>の形である:
     自分の授業は,生徒本位につくっている結果である。

    この<合理化>は,さらにつぎの形になる:
     自分は,算数・数学科の授業を数学の授業として行わない。
     なぜなら,自分は生徒本位に授業をつくる者だからである。
    そしてさらに,つぎの形に発展する:
     算数・数学科の授業を数学の授業として行うことは,
     やろうと思えばいつでもできることだ。
     自分は,これをしないだけである。
     なぜなら,自分は,生徒本位に授業をつくる者だからである。

    教員は,「自分は,算数・数学科の授業を数学の授業として行うことができない」によって傷つくわけにはいかない。 これに傷ついている体(てい) では教員職は務まらないからである。 そこで,<合理化>の心理を発動して,「自分は,算数・数学科の授業を数学の授業として行うことができない」を自身に対し隠蔽する。
    教員のこの有り様は,肯定的に受け入れることになるのみである。
    実際,教員において,これとは異なる有り様は無い。

    そして,教員のこの有り様は,算数・数学科から大事を失わせるというものではない。
    算数・数学科は,もともと,教員のこの有り様から出発している。 他の有り様が無ければ,<失う>もないわけである。

    算数・数学科の授業は,教員の行うものとして,学習主題になっている数学の授業にはならない。 授業は,教員が自分本位につくる授業ということで,「何でもあり」になる。
    算数・数学科のこの有り様は,肯定的に受け入れることになるのみである。
    実際,算数・数学科において,これとは異なる有り様は無い。

    そして,算数・数学科のこの有り様は,生徒にとって迷惑・被害・損失というものではない。
    算数・数学科は,もともとこの有り様から出発している。 他の有り様が無ければ,<迷惑・被害・損失>もないわけである。

    ひとは,自身の<生きる>を,いろいろな場で行い,現す。
    <生きる>には,自足・不足があり,幸せ・不幸せがある。
    自足・不足,幸せ・不幸せをひっくるめて,<生きる>である。
    算数・数学科は,このような場の一つである。
    算数・数学科の肝要は,ひとが<生きる>を行う場になっていることである。 学習主題になっている数学が正しく数学として教えられるかどうかではない。
    そして,<自分本位に授業をつくる教員>,<教員の自分本位の授業に付き合わされる生徒>は,算数・数学科の<生きる>の本質的な内容ということになる。

    算数・数学科を場とする<生きる>では,何が起こっているのか?
    「形式陶冶」である。
    <自分本位に授業をつくる教員>,<教員の自分本位の授業に付き合わされる生徒>は,「形式陶冶」の視点から,肯定的に受け入れるものになる。
    実際,算数・数学科の意義を「形式陶冶」に定めるとき,授業は互いに等価となる。