Up | 構成: 修業論・救済論・攪乱論・養成論・現前論 | 作成: 2012-11-30 更新: 2014-05-08 |
教員論を,教員修業論で語るのは,たやすい。
また,教員論を教員修業論で終わらせれば,それは教員論の不備である。 教員論は,教員修業論・教員救済論・教員攪乱論・教員養成論・教員現前論が合わさって,一つである。 (1) 教員修業論 教員は,授業力が低く,そしてずっと低いままである。 理由の第一は,授業力陶冶の方法を知らないためである。 あるいは,その方法を示されても,これを軽んじて行わないためである。 授業力陶冶は修業である。 修業の方法は,「形(かた)を修める・極める」である。 授業は,生徒を<わかる>に到達させるプロセスである。 (理にかなったプロセスでなければ,<わかる>は実現されない。) そして,理にかなったプロセスは,自ずと形(かた)を表す。 その形(かた) は,「導入・展開・まとめ」である。 授業力陶冶の修業は,「「導入・展開・まとめ」を修める・極める」である。 (2) 教員救済論 教員の職は,修業しなければ務まらない。 しかしその修業は,この門に入れば,果てしのない修業になり,そして成果は僅かずつしか見えてこない。 教員は,この修業の門に入ることはできない。 教員は,修業しなければ務まらない立場にあって,かつこの修業をできない者である。 そこで,教員を教員の姿のままに救済する論が立たねばならない。 一般に,救済論は<生きることの苦>からの<救済>の論である。 モチーフは普遍的であり,したがって,論の雛形がいたるところに見出される。 教員救済論も,これらをなぞることで自ずとできあがるところとなる。 (3) 教員攪乱論 学校教育は,生きる系である。 教員は,この生きる系の要素である。 教員は,この生きる系の要素として,<生かされる者>として自身を現す。 学校数学は,攪乱と均衡回帰の繰り返しを自身の生きる形にする。 教員は,この攪乱と均衡回帰の繰り返しを,自身の行動の上に現す。。 これが,教員が自身を生きている形である。 学校数学・教員は,攪乱と均衡回帰の繰り返しの発現を自己目的化した運動をする。 「経済―景気サイクル」が,これのメタファになる。 好況とは無駄な購買が興ることである。 好況に「進歩」の意味はない。 好況・不況の景気サイクルを運動するのみである学校数学・教員に「進歩」を展望するのは,錯認である。 ひとは,教育を,進歩すべきものとする。 進歩がないのは,非難されるべきことであるとする。 この考えのおおもとには,「進歩」を善とし「進歩しない」を悪とする考え方がある。 しかし,もともと,人・社会・自然に進歩はない。 人・社会・自然は,運動する。 人・社会・自然は,ただ運動する。 自身の存る形として──それ以上でも以下でもない形として──運動する。 学校数学・教員は,運動する。 学校数学・教員は,ただ運動する。 自身の存る形として──それ以上でも以下でもない形として──運動する。 その運動は,同じ道を行ったり来たりの運動である。 (4) 教員養成論 学校教員の職は,大学で教員免許法の定める単位を取得し,そして教員採用試験に合格して,就く。 そこで,学校教員の現前を考えることは,大学の授業の現前を考えることである。 即ち,大学教員の授業/指導の現前を考えることである。 ところで,大学教員は,授業力/指導力の低さが問題にされる存在である。 実際,今日の大学は,「FD (faculty development)」に明示的に取り組むことが課せられるところとなっている。 大学教員は,教員として劣る者である。 こうして,大学の教員養成は,《教員として劣る者が教員養成の役を担う》の絵図になる。 これは矛盾の構造である。 この矛盾構造は,教員養成論として論考するところとなる。 (4) 教員現前論 学校教員は,<修行する者><救済される者><攪乱される者><養成される者>であることの結果として,<こんな授業をすることになる者>である。 学校教員の現前は,必然である。 |