Up 「学校数学を数学にする」が含蓄するシステム破壊 作成: 2012-08-25
更新: 2012-11-17



    学校数学の「何でもあり」は,学校数学という系の定常均衡相 (攪乱に対する復元相) である。
    特に,「何でもあり」は,これを改めるという話になるものではない。
    実際,「システム均衡」の「改める」は,系を損なう意味になる。
    このことを見るために,「学校数学を数学にする」が含蓄するシステム破壊を,2タイプ押さえておく。


    (1) 学校数学を数学にするために教員養成をいじることは,教員養成破壊に

    学校数学が数学になるためには,教員が数学を教えられる者であることが必要である。
    したがって,数学教員養成のシステムが,数学を教えられる教員を実際に養成するものであることが必要である。
    数学を教えるには,第一に,数学の力がなければならない。
    したがって,数学教員養成の内容は,第一に,数学の力をつけさせることである。

    数学の力をつける方法は,数学に本格的に取り組むことであり,これの他にはない。
    しかし,「数学に本格的に取り組む」を数学教員養成課程に実現しようとしたら,どうなるか?
    他のすべてを留守にしなければならない。
    (しかも,これでも足りない。──実際,しようとしていることは,数学教員養成課程に理学部数学専攻の課程ないしそれ以上の課程を含ませるということである。)

    これは果たして教員養成になるのか?
    すなわち,この課程を修了できる者は,いったいどれほどか?
    そして,この課程を修了した者は,そのまま教員として務まるのか?

    そのまま教員として務まるふうにはならないとしたら (実際,務まらないが),務まるようにするために,教員養成課程の就学年数を増やすとか,OJTの実質的なシステムをつくるとかを,しなければならない。
    また,このときOJTを考えるのは,教員として成長する間の「酷い授業」による生徒被害に目をつむるということである。


    (2) 学校数学を数学にするために授業方法をいじることは,学習破壊に

    では,教員はいまのままにして学校数学を数学にしようとすると,どうなるか?
    授業マニュアルを教員に与え,この通りに授業させる。
    授業マニュアルは「教科書」とか「教師用指導書」になるから,この形態は現行と変わらない。
    問題は,教員がこの形で数学を教えられるかである。 また,生徒がこの数学を学習できるかである。

    マニュアルは,数学を伝えられない。 (実際,マニュアルで数学が伝わるなら,数学の修業は要らないわけである。)
    数学をもたずにマニュアルに依る授業は,マニュアルに記載されている学習内容そのままの受け渡しになるか,無理に独自性を発揮した結果の荒唐無稽になるかである。
    この授業では,学習が起こらない。