Up | 達観「数学教育」 | 作成: 2019-07-09 更新: 2019-07-09 |
「数学を教える」を立てるのは,「数学を学ぶ」を大事だと思っているからである。 では,数学を学ぶ理由は? 科学のことばが数学を含むからである。 数学を知らないと科学ないし応用科学に係われない。 よって,「数学を教える」を立てるのは,「科学ないし応用科学に係わる」を大事だと思っているからである。 「数学を教える」を立てる仕方は,「数学教員」という職種を設けることである。 そしてこれは,数学教員養成の職種を同時に設けることになる。 手探りだが情熱の草創期を経て,数学教育の要領がだんだんと得られてくる。 この段階になると,数学教員養成の職に就いている者よりも現場の教員の方が,数学教育を語れるようになる。 草創期は,数学教員養成をリードする役は数学専門の者が就くしかなかった。 翻ってその時期は,数学教員養成をリードする者は数学を知る者であった。 数学教員養成の規模が大きくなると,これが適わなくなる。 こうして,数学教員養成職は,数学教育でも数学でも存在理由を示せない者が占めるようになっていく。 彼らは,自分の存在理由を立てるために,「数学教育」の意味を変えることになる。 即ち,「数学を教える」から「数学で何かを教える」に変える。 そして自分をこの「何か」の探求者として立てる。 自分の職種を「数学教育学」と呼び改め,自分は「学者」になる。 「何か」は,ことばである。 「何か」に埋まる何かがあるわけではない。 しかし,数学教育学者は,「何か」に「人において最も大事なものの一つ」を当て込むようになる。 ──集団のダイナミクスとして,このような思考回路が形成される。 数学教育学者は,人において最も大事なものの一つ「A」を捻り出す。 そして,数学教育を「数学でAを教える」に構成しようとする。 「数学でAを教える」は,ただのことばである。 ただのことばであるが,数学教育の現場はこれで攪乱される。 攪乱はただ攪乱であって何も生まない。 一時のブームとして,じきに飽きられる。 こうして,何も無かったかの如く,もとに戻る。 しかし,出来事は世代忘却される。 A は A′ に新装して,「数学でA′ を教える」が興る。 「数学で何かを教える」の数学教育は数学教育現場を攪乱するのみのものだが,この攪乱は社会に対し合理である。 《経済の中にきちんと位置づいている》──これがその「合理」である。 「数学で何かを教える」の攪乱は,経済効果の役を果たしている。 しかし,社会に対し合理であるが,生徒は犠牲になっている。 この犠牲は,合理化される必要がある。 そして合理化は実際可能である。 即ち,「無いと比べたらはるかにマシ」の理が立つ。 「数学で何かを教える」の攪乱の中でも,数学教員のやることは「数学を教える」になるのみである。 その数学は「数学で何かを教える」の攪乱によりかなりいかがわしいものになるが,「無いと比べたらはるかにマシ」である。 残る問題は,「無いと比べたらはるかにマシ」をどのような表現によって説得的にするかである。 ここで「形式陶冶」を用いる。 但しこの「形式陶冶」は,実際に形式を陶冶しているわけではない。 これは「身体トレーニングで体が鍛えられる」と同じである。 「形式陶冶」の最も古風な解釈の「脳みそが錬られる」が,この場合当たっている。 数学教育は,「どうであるべき」のように考えるものではない。 「どうなるか」と考えるものである。 生き物は,生きるためにニッチを求める。 数学教育は,生きられるニッチを求め,そのために己を改造する。 数学教育の現前は,こうしてニッチを得ている形である。 |