Up 「授業運」の認識論:要旨 作成: 2013-01-27
更新: 2014-03-27


    本論考の「授業運」論は,生徒の問いになる「学校数学の勉強は何のため?」 の答えの構成の,最後段階になるものである。
    即ち,本論考は,「学校数学の勉強」が何をしていることであるかの答えを構成し終えたところから,開始する。 生徒の最後の問いになる「自分の得は他とくらべてどんな?」 を立て,これに対する答えをつくろうとする。 そして本論考の立場では,これは「授業運」論になる。

    本論考は,「授業運」の存在論を経て,「授業運は,幸運・不運が立たない」と言うところまで来た。
    ここで,「授業運」論を存在論から認識論に転じる。
    即ち,「授業運」が実際のところどう受け取られ・扱われるかを問題にする。

    このとき,つぎのことが見て取れる:
      《認識は,「授業運は,幸運・不運が立たない」を自身の上に現す》
    実際,ひとは「運」を流すようにして生きる。
    「運」を「所与」と同じにし,そして「他と比べてもしようがない」で受け流す。