Up | 要 約 | 作成: 2013-10-10 更新: 2014-03-07 |
ここで,生徒は多様である。 授業/学校数学も多様である。 そこで,この問いをつぎのものに画定する:
しかし,この答えは,まだ問いを収めるものにはならない。 「得」の「なに」を答えただけで,「どれだけ」を答えていないからである。 問いは,さらにつぎの問いに転じることになる:
「他と比べてどんな?」の答えをつくるためには,授業/学校数学の「多様性」の構造的捉えが必要になる。 「多様性」は,つぎの多様性の複合である: ところで,授業は価値通約できない。 授業は,特個である。 授業の「多様性」は,価値の高低ではなく,特個の様々である。 そして,子どもは教師を選べない。 多様性の中の一点である授業のどれが自分の受ける授業になるかは,「授業運」である。 こうして,「他と比べてどんな?」の問いに対する答えは,「授業運」である:
「授業運」論は,「主体」に個人と社会の二通りがある。 「子どもは教師を選べない」は,「主体」が個人の場合である。 これは,「子どもは授業運を所与とするのみ」という主題である。 「主体」を社会にするときは,「文化」が論点に浮かび上がる。 「授業運がどう受け取られ・扱われるか,それは文化である」という主題になる。 以上が,「授業特個・授業運」のストーリーである。 そしてこれに,つぎの主題が下位主題として加わる:
本論考は,「ジタバタ」を規準にする。 即ち,本論考は,授業の最も還元された相で「授業」の意味を考えることにし,そしてそれを「生徒にジタバタさせる」にする。 そこで,「授業になっている・いない」は,「生徒がジタバタをする・しない」である。 <ジタバタ>の意義は? 何かがわかるようになる・できるようになるためには,ジタバタしなければならない。 授業は,この必要なジタバタをさせるものである。 さらに,わかる・できるに至るかどうかは<ジタバタ>の二の次である。 肝心は,<ジタバタ>にある。 現実は,「授業」とされているものが「授業」である。 学校で行われる授業は,すべて授業である。 その中には,《生徒にジタバタを課す》をやらない/やれないものもある。 むしろ,ふつうにある。 そこで,「授業特個・授業運」の立論は,本来,この部類にまで拡げて充足である。 しかし,本論考は,ここまでは拡げないとする。 |