Up 「個の多様性」からの「形式陶冶」の導出 作成: 2014-03-17
更新: 2014-03-17


    数学の授業は,「数学の勉強」の<個の多様性>を現す。
    「数学の勉強」の<個の多様性>は,生徒の<個の多様性>である。
    したがって,「数学の勉強」の<個の多様性>は,絶対である。

    そこで,つぎの問題が立つ:
      数学の授業は,「数学の勉強」の<個の多様性>に対し,どのように意義づけられるか?

    実際,「数学の勉強」の<個の多様性>に対しては,数学の授業の意義の多様性で応じるのみである。
    いま,<個の多様性>の単純な──しかし骨格的な──相として,つぎのものを考える:
      《「数学の勉強」に,どこまで付いて行けたか》

    最後まで学校数学に付いて行けた者は,数学の授業を受けてきた意味を,「数学の勉強」にすることができる。
    途中で学校数学に付いて行けなくなった/行くのをやめた者は,数学の授業を受けてきた意味を,つぎのいずれかで立てることになる:
      A. 「数学の勉強と,何か」
      B. 「数学の勉強と,無駄」
    本論考は,後者に対しては,「何か=形式陶冶」を以て,Aを立てようとする。