Up | 「運」と能動 : 要旨 | 作成: 2013-01-25 更新: 2014-03-26 |
実際,「運」は,単純に「所与」のことではない。 「運」の「所与「は,「プロセスがその都度所与をつくる」の「所与」である。 そして,このプロセスの中に「自分」がいる。 そこで,特に,「運は自分でつかむ/つくるもの」となるわけである。 「授業運」は,生徒の授業運に対し教師の授業運も考えられる。 生徒と教師が授業を場としてつくり出すプロセスは,生徒の授業運と教師の授業運を更新していく。 「運」の「プロセスがその都度所与をつくる」は,「運は自分でつかむ/つくるもの」とイコールではない。 即ち,「プロセスがその都度所与をつくる」の中の個は,「主体性を発揮する者」とは限らない。 「そこに在ること自体が,プロセスの契機になる」という面が,重要である。 どういうことか? 生徒の授業運を考えてみよう。 生徒は,最初,授業を問わない/問えない存在である。 実際,他の授業を知らない者は,現前の授業の他に授業が無い者である。 そして,生徒は,このような者である。 よって,生徒の授業運を更新するプロセスは,教師の能動が顕著に現われるものということになる。 その能動は,教師が生徒のためを思って行動する能動である。 このとき,生徒は教師にその能動を誘発する存在である。 こうして,授業運は,教師がどのような能動を現すか,生徒が教師のどのような能動を誘発する存在か,で見ていくものになる。 生徒はやがて,他の授業を意識する者になる。 そして,つぎの問いを立てる:
これは,自分の「授業運」を問う問いである。 この問いに対する答え方は,評価と主体論を大区分としつつ,いろいろになる: |