(1) <問題解決> 対 <生成>
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Lévi-Strauss, C., "La pensée sauvage" (1962)
大橋保夫訳『野生の思考』 , みすず書房, 1976.
p.22
原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものであったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。
それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」bricolage (器用仕事) と呼ばれる仕事である。
ブリコレ bricoler という動詞は、古くは、球技、玉つき、狩猟、馬術に用いられ、ポールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直線からそれるというように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。
今日でもやはり、ブリコルール bricoleur (器用人) とは、くろうととはちがって,ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。
p.26
D'ailleurs, une forme d'activité subsiste parmi nous qui, sur le plan technique, permet assez bien de concevoir ce que, sur le plan de la spéculation, put être une science que nous préférons appeler « première» plutôt que primitive : c'est celle communément désignée par le terme de bricolage.
Dans son sens ancien, le verbe bricoler s'applique au jeu de balle et de billard, à la chasse et à l'équitation, mais toujours pour évoquer un mouvement incident : celui de la balle qui rebondit, du chien qui divague, du cheval qui s'écarte de la ligne droite pour éviter un obstacle.
Et, de nos jours, le bri- coleur reste celui qui œuvre de ses mains, en utilisant des moyens détournés par comparaison avec ceux de l'homme de l'art.
p.23
器用人は多種多様の仕事をやることができる。
しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せぬというようなことはない。
彼の使う資材の世界は閉じている。
そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。
しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。
なぜなら、「もちあわせ」の内容構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。
すなわち、いろいろな機会にストックが更新され増加し、また前にものを作ったり壊したりしたときの残りもので維持されているのである。
したがって器用人の使うものの集合は、ある一つの計画によって定義されるものではない。
(定義しうるとすれば、エンジニアの揚合のように、少くとも理論的には、計画の種類と同数の資材集合の存在が前提となるはずである。)
器用人の用いる資材集合は、単に資材性〔潜在的有用性〕のみによって定義される。
器用人自身の言い方を借りて言い換えるならば、「まだなにかの役にたつ」という原則によって集められ保存された要素でできている。
したがって、このような要素のうちのいくらかは、なかば特殊化されていることになる。
すなわち器用人があらゆる業種の道具と知識を揃えなくても使えるものという点では十分特殊化されているが、各要素が明確な一定の用途に限定されるほどではない。
要素のそれぞれは、具体的で同時に潜在的ないくつもの関係の集合を代表する。
それらは操作媒体である。
しかし同一のタイプに属するものならどのような操作にも使える操作媒体である。
p.27
Le bricoleur est apte à exécuter un grand nombre de tâches diversifiées ; mais, à la différence de l'ingénieur, il ne subordonne pas chacune d'elles à l'obtention de matières premières et d'outils, conçus et procurés à la mesure de son projet : son univers instrumental est clos, et la règle de son jeu est de toujours s'arranger avec les « moyens du bord », c'est-à-dire un en- semble à chaque instant fini d'outils et de matériaux, hété- roclites au surplus, parce que la composition de l'ensemble n'est pas en rapport avec le projet du moment, ni d'ailleurs avec aucun projet particulier, mais est le résultat contingent de toutes les occasions qui se sont présentées de renouveler ou d'enrichir le stock, ou de l'entretenir avec les résidus de constructions et de destructions antérieures.
L'ensemble des moyens du bricoleur n'est donc pas définissable par un projet (ce qui supposerait d'ailleurs, comme chez l'ingénieur, l'existence d'autant d'ensembles instrumentaux que de genres de projets, au moins en théorie) ; il se définit seulement par son instrumentante, autrement dit et pour employer le lan- gage même du bricoleur, parce que les éléments sont recueillis ou conservés en vertu du principe que « ça peut toujours servir ».
De tels éléments sont donc à demi particularisés : suffisamment pour que le bricoleur n'ait pas besoin de l'é- quipement et du savoir de tous les corps d'état ; mais pas assez pour que chaque élément soit astreint à un emploi pré- cis et déterminé.
Chaque élément représente un ensemble de relations, à la fois concrètes et virtuelles ; ce sont des opéra- teurs, mais utilisables en vue d'opérations quelconques au sein d'un type.
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ここで述べられている「器用人」と「エンジニア」の対比は,そのまま「学校数学」と「数学」の対比になる。
学校数学は,<問題解決>を方法論にしている。
解を得るために,使えそうなものを捜してきて試す。
解が得られたら,その作業は正しいとなる。
例えば,分数の求積問題に対し「数直線」を使って正しい解に至れば,その作業は正しい。
数学は,<生成>を方法論にしている。
生成には順序がある。
後から生成されたものを使って前に生成されたものを説明することは,循環論法になるので,却けられる。
例えば,分数の求積問題に対し「数直線」を使うのは,後から生成されたものを使って前に生成されたものを説明する循環論法であるので,却けられる。
(2) 数学教育学は,数学ベースから学校数学ベースへ遷移
数学教育学に入ってくる者は,学校数学ベースと数学ベースの2通りになる。
学校数学ベースは,自ずと<問題解決>派である。
数学ベースは,<生成>派である。
ただし<生成>は,進んでいくほど生成の前後関係の押さえが困難になってくる。
よって分野によっては,<問題解決>の色合いが強くなる。──解析学など。
<生成>派は,数学教育学の中で少数派になる。
これは,系のダイナミクスに拠るところである。
そのダイナミクスを,「数学教育学の歴史」として概観しておく:
- 学校数学は,数学者が学校数学をつくるところから始まる。
このとき,作業母体として数学教育学の学会がつくられる。
したがって,数学教育学は,数学ベースから始まる。(人物では,藤沢利喜太郎)
- 学校数学ができると,数学教員が学会に入ってきて,学校数学はどうあるべきかの考えを述べるようになる。
彼らは,まだ数学ベースである。
- 学校教育が進展する。
数学教育学には,教育畑・教育学畑の者が入ってくるようになる。(人物では,塩野直道)
また,もともと数学ベースだが,欧米の教育改革運動に触発されることもあって,形式陶冶のスタンスで数学教育を考えようとする者が,現れてくる。(人物では,小倉金之助)
- 数学教育学のこの傾向は,《数学教員養成が<学校数学を教える>になることで,数学教員が学校数学ベースになる》傾向と,循環する。
結果として,数学教育学は,学校数学ベースでないと居ても意味がないところとなり,数学ベースの者は次第に消えていく。
- 数学教育学が学校数学ベースになっていく流れは,過去に一度ストップすることがあった。
「数学教育現代化運動」である。
ただしこれは,その後の数学教育学の進捗に,ほとんど痕跡を残していない。
- なお,これと同時期,数学教育協議会の「数学教育改革運動」があった。
こちらの方は,学校数学の基本領域「数」の内容を改めさせることに成功した。
(3) <道具>対<理論体系>
<問題解決>と<生成>では,授業内容が違ってくるが,それは学習の位置づけが違うからである。
<問題解決>は,<道具>の獲得が,学習である。
<生成>は,<理論体系>の構築が,学習である。
<問題解決>にとって授業内容は,それを登り終えたら捨てられる梯子である。
例えば,分数の求積計算に「ペンキ塗り」を用いるが,いったん求積公式に至ったら,「ペンキ塗り」は捨てられる。かけ算使用の多様な場面に通用するモデルではないからである。
<生成>にとって授業内容は,梯子であるが,それはこの先さらに段を接いでいくことになる梯子である。
実際,<はしごの段を接ぐ>が,<生成>である。
分数の求積公式の獲得は,ここまで登ってきたはしごに段が加わることである。
このはしごを降りていくと,「数の意味」の段や「数の積の意味」の段がある。
──<問題解決>の学校数学では,「数の意味」や「数の積の意味」はやらない。
(4) <問題解決>の難点と<生成>の難点
<問題解決>の難点は,つぎのものである:
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<問題解決>仕様で学校数学を構成するのは,限度がある》
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小学算数でも,<問題解決>仕様は限度がある。即ち,<問題解決>仕様と馴染まない主題がある。
中学数学,高校数学と進むと,<問題解決>仕様はいよいよ無理となる。
そして,<問題解決>仕様が無理となる時,それは,これまで<問題解決>仕様で学校数学をやってきた生徒が,授業についていけなくなる時である。
<生成>の難点は,つぎのものである:
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<生成>の学習は,論理的思考能力と忍耐を要する。
この学習についていこうとする/ついていける生徒は,ふつうでない。》
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