Up | おわりに | 作成: 2015-11-01 更新: 2015-11-01 |
そのときは,数学教育学の言語を考えるというのが趣旨であった。 現前の「数学教育学」は,合理主義/表象主義/言語写像論がこれの存在論になっている。 合理主義/表象主義/言語写像論に拠る探求方法論は,論理実証主義である。 論理実証主義の探求は,「分析と再構成」である。 これが,「リサーチ」である。 「数学教育学」は,「リサーチ」を規格にするものになる。 「分析と再構成」は,限界がある。 限界は,複雑系が相手のときに現れる。 複雑系が相手のとき,「分析と再構成」は「塵を積んで山をつくるプロジェクト」になる。 しかし,塵を積んで山はつくれない──複雑系の複雑系たる所以。 塵を積んで山はつくれないから,複雑系相手では山の先取が必要になる。 山を先取する論法は,実感論・経験論である。 数学教育は複雑系であるから,数学教育学はこれの場合になる。 数学教育学は,実感論・経験論が必須になる。 2008-08-04 時点では,現前の「数学教育学」に実感論・経験論の居処をつくるという考え方をした。 そこで,つぎが『数学教育学とは何か』の趣旨になった:
『数学教育学とは何か』をつくる作業は,構想を書きとめておいてそして基礎探求に進むという形になった。 ──その間,『数学教育学とは何か』のテクストは,最初の構想を内容にしたままで,放置となる。 作業は,手探り作業であって,「Making 『「学校数学」論』」の一連のテクストをつくっていくことになる。 そして作業は,『マクロ数学教育学 ──定立と方法』 (2014-11-13 最終更新) を以て『数学教育学とは何か?』に代え,終結となった。 在職最後の年の晩秋であり,先ずは間に合ったという感じである。 『マクロ数学教育学 ──定立と方法』は,当然のことながら,最初構想した『数学教育学とは何か』とはかなり違うものになった。 つぎがこれの趣旨になっていた:
『マクロ数学教育学』は,表題の拙さが最初からはっきりしていた。 この表題は,現前の「数学教育学」に遠慮したものである。 数学教育学を「マクロ数学教育学」にして,「もう一つの数学教育学」の趣きにした。 しかしこの遠慮は,数学教育学の意味をはっきりさせようとする作業を,自ら台無しにしているだけである。 そこで,「数学教育学」と数学教育学(科学) の違いをはっきり立てる記述のものを,『マクロ数学教育学 ──定立と方法』と内容があまり重複しない程度に,改めてつくることにした。 放置していたテクスト『数学教育学とは何か』を,この作業にあてることにした。 『数学教育学とは何か』は,つぎがこれの趣旨になる:
数学教育は,数学教育生態系である。 「数学教育学」は,数学教育に是非を立て,是を進めることを自分の仕事にする。 この営みは,数学教育生態系に属する。 数学教育学は,数学教育生態系を俯瞰する視座を立て,数学教育生態系を科学することを自分の仕事にする。 科学において,現前は現成である。 現前は,「是非も無し」である。 翻って,「科学」の規準 (criteria) は,「現成」である。 本テクストは,「数学教育学とは何か」の答えとして,数学教育学の位置づけ,方法論を論じ,そしてこれが各論を行うときの論法を,いくつかの例でごく大雑把に示した。 本テクストは,数学教育学に入っていくものではない。 入口の前に佇む体(てい) で終わるものである。 本テクストは,学会について,相対的に多くの紙幅を割いた。 これは,数学教育学専攻大学院生を格別な読者に定めているためである。 『学会』の部の主題は,「生業(なりわい) と探求の二叉」である。 学生に対して強調することは,「先ずは生業を立てよ」である。 「腹が減っては戦はできぬ」ということである。 学生は,経験値の低さから,どうしても見掛けと本質を見誤ってしまう。 (もっとも,見掛けと本質の見誤りは学生に限るわけではないが。) 学会は,研究会ではない。 学会は,学会員の生業のサポートがこれの機能である。
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