Up | 総括 | 作成: 2018-05-17 更新: 2018-05-19 |
(1) 「数学教育」とは何か 「数学を学びたい」は,「<これ>ができる・わかるためには,数学が要る」に応じるものである。 この論理を外した「数学を教えよう」は,無理をすることになる。 学校数学は,この 「<これ>ができる・わかるためには,数学が要る」は,「数学を学んでいなければ,<これ>ができない・わからない」である。 学校数学は,<これ>を示さない。 実際,学校数学は,<これ>を示す形では立てない。 学校数学は,学習者を「山の裾野」と見立てることになるからである。 彼らに対しては,数学を<汎用>として提示せねばならない。 また,学校数学の意味を「一般陶冶」にしなければならない。 学校数学のこの宿命は,学校数学が「数学を教える」にはならないことを意味する。 数学は<汎用>として学ぶものではないし,<汎用>として学べるものではないからである。 国は国家間での「生き残り」を環境とするから,施策の「教える」は優良主義になる。 学校数学は,自分が受け持つ「優良」の形を,「数学的○○」と定めてきた。 いまは,「優良」は「グローバル体制における優良」であり,「数学的○○」は「数学的リテラシー」になっている。 数学教育──「数学を教える」──は,この学校数学とは分けて考えるものである。 学校数学は,自身を「人間形成・人格形成」に定め,「優良な人間・人格を形成できた」をゴールにする。 一方,「数学を教える」は,学習者の「わかった・できた」がゴールである。 ──優良主義に対しては, 「個人の形質は,どうこう言うことではない」を返すことになる。 例えば,「テンソル」を授業されている者が「テンソルって何?」を発信し,実際テンソルの意味を教えられているテクストが無いという,奇妙だが理数教育シーンではいつものこととなる状況がある。 そこでわたしは『「テンソル」とは何か』を作成し,発信する。 これは「数学を教える」であり,「テンソル」の「わかった・できた」をゴールとするものである。 このとき,「優良な人間・人格の形成」の考えはさらさらない。実際それを示されれば,厳に退けることとなる。 (2) 「数学教育学」とは何か この体勢からつくる「数学教育学」は,「数学教育の科学」の意味の数学教育学にはならない。 「学校数学かくあるべし」論になるわけである。 そしてこれは,「学」にはならない。 「数学教育」が科学に懸かる形は,つぎの二つである:
b. 経済学,生態学,動物行動学の趣で, 「学校数学」を主題にする 現前の「数学教育学」は,a を「基礎研究」の位置づけで取り込むことによって,「学」の体裁をつくっている。 しかし,この「基礎研究」が「学校数学かくあるべし」とつながらないことが,現前の「数学教育学」の問題になる。 つながらないのは,「基礎研究」者の能力の問題ではなく,そもそも二つの主題の階層が開き過ぎていることが理由である。 ──尤も,階層が開き過ぎるものを「基礎研究」に択ぶのは,「基礎研究」者の能力の問題ということにはなる。 (他山の石:「PME」) 「学校数学かくあるべし」の「基礎研究」となるのは,a ではなく,b の方である。
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