Up 追加,2016-02-18 作成: 2016-02-18
更新: 2016-02-18


    本日,『数学教育学とは何か?』(全7部) が,一段落した。
    とりあえず,「了」とする。

    本論考は,最終的に, 「はじめに」(2015-11-03) に記した趣旨とはだいぶ趣の違うものになった。
    本論考の体裁は「数学教育学の科学の形を求める」であり,スタンスは「現成」である。 「現成」であるから,働きかけはしない。
    しかし,つぎの論を一例として,このスタンスをいろいろ逸脱することになった:
     《 現前の「数学教育」「数学教育学」は,進化する。
    その進化は,「数学離れ」がこれの中身になる。
    その「数学離れ」は,数学の閑却と相応じる。
    そして「数学教育」「数学教育学」の数学閑却は,既に数学忘却のレベルである。
    数学を想うことは,数学の精神を想うことである。
    「数学教育」「数学教育学」の思想はといえば,それは「数学的○○」である。
    この態は,「数学の精神を想う」が概念としても失われていることを示している。
    よって,「数学の精神を想う」という概念があることを,ここで改めて述べるとする。》
    『6. 数学教育普遍学探求』「2.2 数学の精神 : 要旨」)  

    しかし,考えれば,逸脱も「現成」のうちである。(現成のウロボロス!)
    まあよしとする。

      麻浴山(まよくざん)寶徹禪師,あふぎをつかふちなみに,僧きたりてとふ。「風性(じょう)常住,無處不周」なり,なにをもてか,さらに和尚あふぎをつかふ。
      師いはく,なんぢただ「風性常住」をしれりとも,いまだ<「ところとしていたらずといふことなき」道理>をしらずと。
      僧いはく,いかならんかこれ<「無處不周底」の道理>。
      ときに,師,あふぎをつかふのみなり。
      僧,禮拜す。
      佛法の證驗,正傳の活路,それかくのごとし。
      「常住なればあふぎをつかふべからず,つかはぬをりもかぜをきくべき」といふは,常住をもしらず,風性をもしらぬなり。
    (『正法眼藏』「現成公案」)