Up 「能力」「能力陶冶」の存在論 作成: 2015-11-23
更新: 2016-02-11


    数学教育の如何は,「能力」「能力陶冶」観の如何に溯行する。
    ──「溯行」は,つぎの<if - then>の溯行ということになる:
      if (教師が‥‥をする) , then (生徒が‥‥になる)
      if (指導法の考えが‥‥である) , then (教師が‥‥をする)
      if (能力陶冶の考えが‥‥である) , then (指導法の考えが‥‥である)
      if (能力の考えが‥‥である) , then (能力陶冶の考えが‥‥である)


    「能力」は,<探索するカラダ>の能力である。
    「能力陶冶」は,<探索するカラダ>に対する能力陶冶である。
    この「能力」「能力陶冶」の存在論は,どのようなものになるか?

    先ず,この「能力」「能力陶冶」は,<ひとまとまり>を考えることができない,対象化できない。
    まして「能力陶冶」のメカニズムなど,はなから,考えるものにならない。

     註1: 一般に,対象化するとは<ひとまとまり>を立てることであるが,
     行為・事象はこの形式の「対象化」に乗るものではない。

      2: 「能力」を「傾向性 (disposition)」に見立てることは,「能力」の捉え方の一つのアイデアになる。
    即ち,<if (事態) then (行動)>のセットとして,「能力」を定義する。
    この定義は,「操作的定義」というものである。
    このタイプの定義は,違和感がもたれる。
    実際,「<if (事態) then (行動)>のセット」は,「能力」ではなく,「能力の現象」である。
    「<if (事態) then (行動)>のセット」による「能力」の定義は,「能力の現象」で「能力」を定義するというものである。
    「自己言及型定義」である。
    しかしこれは,有り体に言えば「同義反復」である。


    「能力」「能力陶冶」はわけのわからないものである。
    「能力」「能力陶冶」の<わけのわからない>は,そのままで対象にするところとなる。
    実際,<わけのわからない>が本質のものを<わけのわかる>にすることは,誤りをするということである。

    「わけのわからないものである」は,不可知論とは違う。
    「わけが隠れて見えない」ということではないからである。
    「能力」「能力陶冶」は,文をつくる語である──ものを指す語ではない。