Up 必要なのは「リーダシップ」か? 作成: 2011-04-29
更新: 2011-04-29


    危機管理のリーダシップを求める言い方が,マスコミに溢れている。
    しかし,「あの人間がリーダでいるのはだめだ」のような言い方をするのはよいが,確かなリーダになる者がどこかにいるかの如く言うのは,間違いである。

    リーダシップは,賢のリーダシップであるよりも,愚のリーダシップである方が,確率的にはるかに高い。 一人のリーダ,少数の取り巻きが,夜郎自大で事を進めれば,必ずおかしな方向に進む。
    なぜか?
    ものごとは複雑系であるからだ。
    だから「自由主義」の考え方が出てくる。 「自由主義」は,「個々が自分の最適をやることが,全体として,複雑系の最適解を実現している」という考え方である。


    福島原発事故の発表が,東電,保安院,政府それぞれから,バラバラに出てくる。 内容が食い違ったりする。 専門用語が拡げられたり,ひどく要領の得ない言い方がされる。
    さて,これは困ったことか?
    意思統一がなって一本化することが,うれしいことなのか? すんなりアタマに入ってくることばになることが,そんなにうれしいことか?

    こんなふうになれば,それこそ「大本営発表」である。

    発表がバラバラ,内容が食い違う,言い方が拙い──これをよしとしなければならない。
    こうしかならないし,そしてこうであるから,受け手もせっせと勉強するわけである。
    そして,全体が賢くなる。


    郡山市が,放射性物質で汚染された校庭の表土除去を,独自に開始した。
    独自の試験で,「表土を1センチ削ると,放射線量の値が当初の毎時4.1マイクロシーベルトから半分になり,5センチ削ると4分の1になる」の結果を得たためである。 実際,校庭の表土除去では,除去前に毎時3.3マイクロシーベルトだった値が,除去後は毎時0.5マイクロシーベルトに下がったという。(2011-04-26 マスコミ報道)

    これに対し,文科省が牽制してきた。 勝手なことをするなというわけである。 (2011-04-29 マスコミ報道)
    これが,リーダシップを自任する者の考え方である。 すなわち,自分の指導の傘下にいないことを,無規律・無法の状態と考えるのである。
    「メンツにこだわる」という言い方でこのときの文科省を批判する形もあるが,これは「悪者論」になって,ものごとの本質を見失わせる。
    「リーダシップ」には,決まって,規律・手続きの遵守が従い,画一主義が従うのである。 個々の独自の取り組みに対し,これを潰しにかかる。

    強調するが,「リーダシップ」に「良いリーダシップ」と「悪いリーダシップ」があるのではない。 このような分け方をするのは,「独裁」に「良い独裁」と「悪い独裁」を分けるイデオロギーと同類である。
    実際,好んで「悪いリーダシップ」を択る者はいない。 「リーダシップ」は,「愚のリーダシップ」になるのが定めなのである。 そしてこうなるのは,ものごとが複雑系であるからだ。

    危機に際して必要なことは,いもしない<確かなリーダ>を請い求めることではなく,一人ひとりが自分の「よい」と思う行動にせっせと努めることである。 これが,全体の最適解を実現する。