Up 「現成公案」読解 作成: 2010-01-02
更新: 2010-01-15


ここでは,「現成公案」を仏教の文書とは読まずに,思想/哲学の文書と読む。 すなわち,「仏法」は仏法である必要はない,という立場をとる。
そこで,「仏道」は,ひとの主題になった<道>のことにする。 「仏法」は,<道>の世界,ないしこの世界を主題化するときの方法論,ということにする。 そして,「仏(ほとけ)」は,<道>の達人ということにする。
ただし,この文書の中には「生死」観のくだりがある。「たき木,はひ(灰)となる‥‥」の箇所である。ここだけは「仏法」のことばをそのまま使うことになる。

諸法の佛法なる時節,すなはち迷悟あり,修行あり,生あり死あり,諸佛あり衆生あり。
萬法ともにわれにあらざる時節,まどひなくさとりなく,諸佛なく衆生なく,生なく滅なし。
世界法則が<道>の形でひとにとっての主題になるとき,<迷い・悟り>の概念が起こる。<修行>の概念が起こる。<生・死>の概念が起こる。<達人・俗人>の概念が起こる。
これとは逆に,世界法則が意識対象にならなければ,<迷い・悟り>もないし,<達人・俗人>もないし,<生・滅(死)>もない。
佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに,生滅あり,迷悟あり,生佛あり。
しかもかくのごとくなりといへども,花は愛惜にちり,草は棄嫌におふるのみなり。
<道>は,「豊か・乏しい」の卑近・世俗を超越した形而上的スタンスをとる。だから,生滅があり,迷悟があり,<達人になる>がある。
しかしこのように形而上的なスタンスをとるとはいっても,身は卑近・世俗にある。 花が散ればもったいないと感じるし,雑草が生えれば嫌だと感じる。超越などできない。
自己をはこびて萬法を修證するを迷とす,萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。
迷を大悟するは諸佛なり,悟に大迷なるは衆生なり。
さらに悟上に得悟する漢あり,迷中又迷の漢あり。
自分を基準に世界法則を説明しようとするのが,迷である。 世界法則が自分を説明する形になるのが,さとりである。
迷から脱けられないことを悟るのが,達人である。
悟りとは何かというふうに迷うのが,俗人である。
さらに,悟りにも迷いにも程度の違いがある。 悟りの上にさらに悟るを重ねる者もいれば,迷いの中でさらに迷う者もいる。
諸佛のまさしく諸佛なるときは,自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。 しかあれども證佛なり,佛を證しもてゆく。 達人が真に達人である相は,自分は達人であるという意識をもたない,というものである。 しかし達人であることが自ずと顕れている。自分を以て達人を現している。
身心を擧(こ)して色を見取し,身心を擧して聲を聽取するに,したしく會取すれども,かがみに影をやどすがごとくにあらず,水と月とのごとくにあらず。
一方を證するときは一方はくらし。
心身でもって色・声をとらえようとするときの心身と色・声の関係は,色・声のとらえをどんなに精緻にしようとしても,鏡とそれに映る物の関係のようにはならない。水とそれに映る月の関係のようにはならない。
水と月がともに並ぶようには並ばず,一方を証そうするとき一方は暗くなる。 すなわち,色・声を証そうとするときは,心身 (色・声を対象として起こしている当のもの) の方を留守にしてしまう。 心身を証そうとするときは,色・声の方を留守にしてしまう。
佛道をならふといふは,自己をならふ也。
自己をならふといふは,自己をわするるなり。
自己をわするるといふは,萬法に證せらるるなり。
萬法に證せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり,休歇なる悟迹を長々出ならしむ。
<道>がわかるとは,自分がわかるということである。
自分がわかるとは,自分を忘れるということである。
自分を忘れるとは,世界法則の方から自分が説明されるようになるということである。
世界法則の方から自分が説明されるとは,どういう状態を謂うのか?
自分の心身,および他者との関係性として存在する自分の身心が,脱け落ちる状態 (すなわち自分という存在が世界の中に解消される状態) である。
悟りの歩みが止んだ状態に,このときなっている。この止んだ状態の悟りの歩みを,以降ずっと続けていく。
人,はじめて法をもとむるとき,はるかに法の邊際を離却せり。
法すでにおのれに正傳するとき,すみやかに本分人なり。
ひとが<道>を求めることを始めるとき,とんでもなく本筋を外してしまう。
これに対し,法がすでに自分の中に正しく入っているときは,本分イコール<人そのものとしてあること>になっている。
《人,舟にのりてゆくに,めをめぐらして岸をみれば,きしのうつるとあやまる,目をしたしく舟につくれば,ふねのすすむをしる》がごとく,《身心を亂想して萬法を辨肯するには,自心自性は常住なるかとあやまる,もし行李(あんり)をしたしくして箇裏に歸すれば,萬法のわれにあらぬ道理あきらけし》。 喩えとして,ひとが船にのっている場合を考えよう。
岸に目を向ければ,岸が動いているように見える。こんどは,船に目を向ける。すると,船が進んでいることがわかる。
世界法則を考える者は,自分を基にしてしまう。心身で行うわけであるから,自ずとこうなる。 しかしこのときは,船に目をやらない者と同じく,自分を確定したものと錯覚してしまう。
自分を確定したものとするのは,自分を既に世界法則にしてしまっているのと同じである。 もし行いをそのままの相でとらえることをすれば,世界法則が自分ではないことは,道理として,はっきりわかるはずだ。
たき木,はひ(灰)となる,さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを,灰はのち,薪はさきと見取すべからず。
しるべし,薪は薪の法位に住して,さきありのちあり。 前後ありといへども,前後際斷せり。
灰は灰の法位にありて,のちありさきあり。
《かのたき木,はひとなりぬるのち,さらに薪とならざる》がごとく,《人のしぬるのち,さらに生とならず》。
しかあるを,生の死になるといはざるは,佛法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。
死の生にならざる,法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。
生も一時のくらゐなり,死も一時のくらゐなり。
たとへば,冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず,春の夏となるといはぬなり。
薪は,灰になる。灰からもとの薪にはならない。 このことを,灰が後で薪が先ととらえてはならない。
よくよく認識するように。 薪は,薪という位置にあるものである。そして先と後がある。 さらにこの場合,前後はあっても,前後は分かれている。 灰は,灰という位置にあるものである。そして後と先がある。 薪と灰は,それぞれ位置であり,互いに区別される位置である。
さて,「薪は灰になった後また薪にはならない」と同じ意味で,「人は死んで後また生きるとはならない」をとらえよ。 生と死は位置であり,互いに区別される位置である。
生は死にならない。これが仏法の立場である。生はあくまでも位置である。そこで,不生と言う。
死は生にならない。これも仏法の立場である。死はあくまでも位置である。そこで,不滅と言う。
生も死も,一時の位置である。
たとえば,冬・春のようなものである。 冬が春になるとは思わない。春が夏になるとは言わない。
人のさとりをうる,水に月のやどるがごとし。
月ぬれず,水やぶれず。
ひろくおほきなるひかりにてあれど,尺寸の水にやどり,全月も彌天も,くさの露にもやどり,一滴の水にもやどる。
さとりの人をやぶらざる事,月の水をうがたざるがごとし。
人のさとりをけい礙せざること,滴露の天月をけい礙せざるがごとし。
ふかきことは,たかき分量なるべし。
時節の長短は,大水小水を検點し,天月の廣狹を辨取すべし。
ひとが悟りを得る様は,水に月が映って宿るような感じである。
月は濡れず,水は破れない。
広く大きな光でありながら,わずかの水に宿る。
月も天空も,草の露にも,一滴の水にも宿る。 (月・天空を宿している一滴の水が,人が悟りを得る様である。すなわち,)
さとりは,人としてあることを壊さない。それは,月が水を壊さないのと同じである。 そして,人としてあることは,さとりを妨げない。それは,滴露が天月を妨げないのと同じである。 (なにも損なれわず,そのままにある。)
宿っている深さに,もとの高さが表される。
宿っている時節の長短に,水の大小,天・月の広い狭いが表される。
身心に法いまだ參飽せざるには,法すでにたれりとおぼゆ。
法もし身心に充足すれば,ひとかたは,たらずとおぼゆるなり。
たとへば,船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに,ただまろにのみみゆ,さらにことなる相みゆることなし。
しかあれど,この大海,まろなるにあらず,方なるにあらず,のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし,瓔珞(ようらく)のごとし。
ただ,わがまなこのおよぶところ,しばらくまろにみゆるのみなり。
かれがごとく,萬法またしかあり。
塵中格外,おほく樣子を帶せりといへども,參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。
萬法の家風をきかんには,方圓とみゆるほかに,のこりの海徳山徳おほくきはまりなく,よもの世界あることをしるべし。
かたはらのみかくのごとくあるにあらず,直下も一滴もしかあるとしるべし。
心身への法の充足がまだまだのときは,もう足りている思う。
逆に,心身に法が充足すると,足らないと思う。
たとえば,船に乗って,周りに山のない海に出る。世界はただ円く見える。異なる様子のものは見えない。
しかし,この大海は,円くもなく,四角でもない。 そして価値の高いものが,限りなくある。 宮殿のようであり,瓔珞のようである。
自分の眼の及ぶところがただ円に見えるということに過ぎない。
世界法則もまた,この海のようである。 ほんとうは複雑で豊かなのだが,修行途中の眼力の及ぶところを見得るのみである。
世界法則を求めようとするなら,方円と見えているものがすべてなのではなく,見えないところに価値の高いものが無尽蔵にあり,広大な世界があるということを知っておきなさい。
また,横を見渡した世界だけがこうなのではない。 自分の足下も,そして水一滴も,このようであるのだと知っておきなさい。
うを(魚)水をゆくに,ゆけども水のきはなく,鳥そらをとぶに,とぶといへどもそらのきはなし。
しかあれども,うをとり,いまだむかしよりみづそらをはなれず。
只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。
かくのごとくして,頭頭に邊際をつくさずといふ事なく,處處に踏翻せずといふことなしといへども,鳥もしそらをいづればたちまちに死す,魚もし水をいづればたちまちに死す。
魚が水中を行くにおいては,これより先へは行かないという際はない。 鳥が空を飛ぶにおいては,これより先へは飛ばないという際はない。
だけれども,魚・鳥は,これまでずっと,水・空を離れない。
ただ,用が大きいときは水・空を大きく使い,要が小さいときは小さく使う。
このように,<あるところより先へは行かない><行かないところがいろいろある>ということが無い (つまり,どこへでも・どこまでも行く) 一方で,鳥がもし空を出てしまったらたちまちに死ぬし,魚がもし水を出てしまったらたちまちに死ぬ。
以水爲命しりぬべし,以空爲命しりぬべし。
以鳥爲命あり,以魚爲命あり。
以命爲鳥なるべし,以命爲魚なるべし。
このほかさらに進歩あるべし。
修證あり,その壽者命者あること,かくのごとし。
そこで,つぎのことを知るのである:
水があって命がある。空があって命がある。
鳥があって,命がある。魚があって,命がある。
命があって,鳥がある。命があって,魚がある。
この関係性は,他へもさらに進んでいく。
修行があるとは,そして修行に長じた者があるとは,こういうことである。
しかあるを,水をきはめ,そらをきはめてのち,水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは,水にもそらにもみちをうべからず,ところをうべからず。
このところをうれば,この行李(あんり) したがひて現成公案す。
このみちをうれば,この行李したがひて現成公案なり。
このみち,このところ,大にあらず小にあらず,自にあらず他にあらず,さきよりあるにあらず,いま現ずるにあらざるがゆゑに,かくのごとくあるなり。
事実はこのようであるのに,水を究め (水の際を定め),空を究め (空の際を定め) てから水・空を行こうとする魚・鳥がいるとすれば,その魚・鳥は水・空に道を得ることができないし,居る所を得ることができない。
所を得れば,行動も自然になり,「課題は<現成>がわかること」になる。
道を得れば,行動も自然になり,「課題は<現成>がわかること」になる。
道と所には,大・小も,自・他もない。前からあったというものでもなく,いま現れたというものでもない。 そういったものであるからこそ,所・道として存るのである。
しかあるがごとく,人もし佛道を修證するに,得一法通一法なり,遇一行修一行なり。
《<これにところあり,みち通達せるによりてしらるるきは>のしるからざる》は,この<しること>の,<佛法の究盡>と同生し,同參するゆゑにしかあるなり。
「得處かならず自己の知見となりて,慮知にしられんずる」と,ならふことなかれ。
證究すみやかに現成すといへども,密有かならずしも現成にあらず,見成これ何必なり。
魚・鳥と水・空の喩えのように,人が道を修行するときは,一つの理を会ってそれに通ずるようにする,一つの行に出会ってそれを修めるようにする,というぐあいになる。
これに所があり,道ができることによって際限が知られてくる。しかし,これは,知るということではない。
どうしてこういうことになるかというと,知るということが,道の探求とともにあり,ともに進行するものだからである。
ところを得るということは,必ず自分の知見として実現し,思慮によって知られるところのものとなるのか? そうではない。
修行はたしかに形を現すことになるが,自分の内に秘めているのは,現れたことにはならない。 きっと見えように現れるというのでもない。
麻浴山(まよくざん)寶徹禪師,あふぎをつかふちなみに,僧きたりてとふ。「風性(じょう)常住,無處不周」なり,なにをもてか,さらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく,なんぢただ「風性常住」をしれりとも,いまだ<「ところとしていたらずといふことなき」道理>をしらずと。
僧いはく,いかならんかこれ<「無處不周底」の道理>。
ときに,師,あふぎをつかふのみなり。
僧,禮拜す。
佛法の證驗,正傳の活路,それかくのごとし。
「常住なればあふぎをつかふべからず,つかはぬをりもかぜをきくべき」といふは,常住をもしらず,風性をもしらぬなり。
麻浴山に住む寶徹禪師が扇を使っているところに,僧が訪れ,そして問うた。 「風性は,つねにあり,どこにもある」と言うではないか。 それなのになぜ,和尚は扇を使うのか?
禪師は答えた。 あなたは,「風性は,つねにあり」を知ってはいても,「どこにもある」の道理をまだ知らない。
僧は尋ねた。 「どこにもある」の道理とは,どういうものか?
禪師は,扇を使うだけ。
僧は (これを見て,「どこにもある」の道理を悟り) 禪師に礼拝した。
<道>を知り,定理を生かす形は,このようである。
「風性がつねにあるのだから,扇を使ってはならない。扇を使わなくても風を感じ取れるというふうになっていなければならない (そうなっていないのは,修行が足りないのだ)。」と言うのは,「つねにある」の意味も「風性」の意味も知っていないためである。
風性は常住なるがゆゑに,佛家の風は,大地の黄金なるを現成せしめ,長河の蘇酪を參熟せり。 風性はつねにある。それゆえに,達人らの起こす風は,大地が黄金であることを現し,長河の蘇酪を熟成したのである。
正法眼藏現成公案第一

これは天福元年中秋のころかきて,鎭西の俗弟子楊光秀にあたふ。
建長壬子拾勒