Up | 「現成公案」「有時」の読み方 | 作成: 2010-01-02 更新: 2017-10-01 |
裏返して言うと、こんなふうに読んではならないという読み方がある。 思想の書の読み方は、書く者の立場になってみること。 これが第一であり、ほぼすべてである。 1. 思想の書は、尋常でないことばの使い方がされている 書く者は、ことばを紡ぐ。 自分の想いをひとに伝えようとして、想いを<ひとに伝わることば>にのせようとする。 しかしこの場合、ことばは不自由で無力である。 不自由で無力なことばに想いをのせるわけであるから、無理をやることになる。 想いをことばに無理にのせるので、尋常でないことばの使い方になる。 読み手は、尋常でないことばの使い方を目の前にする。 ひとは、意味の解せないことばに出会うと、辞書にあたる。 しかし、思想書の場合、辞書は無力であり、ミス・リーディングである。 辞書は、ことばの尋常な使い方を教えるものであるからだ。 読み手は、書の<尋常でないことばの使い方>と対峙して、書き手の想いにアプローチすることになる。 これは、辞書を用いて読む行為ではない。 書き手の想いを<感じる>行為である。 <感じる>ができるとは、読み手が書き手に対し、既に相当程度接近しているということである。 すなわち、<成長>が、読み手の条件になる。 実際、いろいろ経験を積み成長するほどに、思想の書も読めるようになる。 2. 穿(うが)った読み方は求めていない 書き手は、読み手の穿った読み方を求めない。 穿った読み方を退けるように、書く。 したがって、読み手の方は、構文をそのまま受け入れ、素直に読むことが肝心である。 構文を無視した解釈、書いてないことの補足は、書き手の求めているものではない。 それをすれば、必ず、誤読、勝手読みになる。 いまはネットで「現成公案」「有時」の多種多様な読解を目にすることができるが、この原文のどこを叩いたらこんな解釈が出てくるのかといったものが,ほとんどである。 特に,専門でありそうな者が,トンデモの訳をつくる。 こうなるのは、文章を素直に読むことよりも、専門の流儀への付会 (予定調和) を、優先させてしまうからである。 3. 思想の書は、ことばが個々に曖昧・不完全であることを承知で紡がれている 書き手は、ことばにしにくいことをことばにしようとしている。 個々の語や文で決定的なことを言えると思っていないし、実際、個々の語や文で決定的なことを言おうとはしていない。 曖昧で不完全な文を紡ぎ、それらが一つに合わさったところで、自分の思想がなんとか伝わるように、という計算で書いている。 こういうわけであるから、語や文ごとに分析的に意味をとらえようとするような読み方は、間違っており、無駄である。 書き手は、おおように書いている。 読み手が、書の細部に神経質に応じるのは、間違いである。 4. 思想は、専門性を深めたものではない 思想は、専門性の深いところにがあるのではなく、専門性を脱けたところにある。 専門性は、大きな思想に至るための手段である。 逆に、広く浅くは、思想に至る道ではない。 どんな専門性でもかまわない。 一つの専門性を極めようと修行すること。 その先に、専門性を脱けた相で、思想が現れる。 5. 「現成公案」「有時」は,教育テクストでもある 以上述べてきたことの一方で,「現成公案」「有時」は敢えて不親切に書いている面がある。 それは,教育テクストとして書いているからである。 自分で考えさせるために,不親切に書いている。 「公案」のスタンスである。 6. 結論:「現成公案」「有時」の読み方 「現成公案」「有時」を読むための専門性というものは、無い。 この意味で、「現成公案」「有時」はだれでも読める書である。 読み手の条件は、参照・検証するものを自分の中にもっていること。 そして、これは<成長>がもたらすものである。 「現成公案」「有時」を分析的に読むのは、間違いである。 大局的に読むこと。 一つの語・文・文節は、他の語・文・文節と互いに呼応し合っている。 一つの語・文・文節ごとに意味を解しようとする読み方は、間違いである。 また、構文にそって素直に読むこと。 自分がうまく読めないからといって、構文を無視した解釈をつくるのは、本末転倒である。 |