Up ドストエフスキー 作成: 2010-12-30
更新: 2010-12-30


    人は,自然・生活・カラダで生かされている。
    しかし人は,想念を紡いでこれを世界に見なす。
    自然・生活・カラダという豊かな系に比して圧倒的に貧しく些末で不細工なのがこの想念なのであるが,人は自然・生活・カラダを見ることができないで想念の方を世界にする。
    そして己や周りをこの想念に従わせようとして,愚を犯す。
    そして罰(バチ) があたる。
    その罰は,自然・生活・カラダが下す罰である。
    罰を喰らう中で,人はやがて自然・生活・カラダを見出すようになる。

    おおよそこれが,ドストエフスキーの『罪と罰』のテーマである。
    以下は,ラストシーンに出てくることば:

    彼はこの夕べ,なにごとによらず長くみっちり考えたり,思想を集中させたりすることが出来なかった。 いま彼は何ごとにもせよ,意識的に解決することが出来なかったに相違ない。 彼はただ感じたばかりである。 弁証の代わりに生活が到来したのだ。 従って意識の中にも,何か全く別なものが形成さるべきはずである。
    『罪と罰』(米川正夫訳,新潮文庫,1951)