Up 「即身成仏」を立てる 作成: 2018-06-06
更新: 2018-06-07


    宇宙を,宇宙の理の表出 (現象) と見る。
    仏教密教は,宇宙の理の仏格化として「大日如来」を立てる。

    現象は,宇宙現象の()現象である。
    仏教密教は,各現象に対しその理を仏格化する。
    こうして「諸仏」が立つ。

    諸仏は,この構造を以て,大日如来の諸々の面である。
    大日如来と諸仏があるのではなく,大日如来だけがある。
    ──これを絵図にしたのが,曼荼羅図である。


    仏格化は,何のためか?

    仏教密教では,「悟り」は「宇宙の理との一体化」の意味になる。
    しかし「一体化」は,一体化の相手が自分と同じ姿格好でないとやりにくい。
    そこで,自分と同じ姿格好をした仏を便宜的に設ける。

    「便宜的」 (仏教のことばだと「方便」) という点がだいじである。
    実際,いかに荒唐無稽な宗教でも,仏を人の姿で実在させることは憚る。
    なぜなら,生理や生活の問題を持ち込むことになるからである:
      大日如来の体の各部位・各器官の機能・機能性は?
      大日如来の衣装・装身具の調達および替えは,どうなっている?」  
       等々

    人間と同じ姿格好の仏は,仏像・仏画になる。
    そして,ひとはこれを拝む。
    大日如来・諸仏は方便であるから,拝まれているのはあくまでも宇宙の理である。
    <拝む>の意味は,宇宙の理への発信/働きかけである。
    このとき,大日如来・諸仏はただのインタフェースである。


    この存在論において,「仏」を「宇宙の理を(さと)った者」の意味にする。
    「成仏」とは,この仏になることである。
    よって,「成仏」の規準 criteria は,「宇宙の理を覚った」である。
    この覚りが本物の覚りであり,「正覚」とか「無上覚」と呼ぶ。
    「正」「無上」の形容詞は,俗物のいう「悟り」から区別するためのものである。

    空海は,この上で「即身成仏」──「修行によって仏に成ることができる」──を説く。
    密教の修行で,宇宙の理を識るに至るというわけである。


    この手の論に付き合うには,忍耐が要る。
    ほんとうは「アホ言ってないで勉強しろ」と言いたいところなのだが,これを言ったら(しま)いである。
    いまは「人間学」をやっているところである。
    つぎの人間心理を探究する立場から,この荒唐無稽の論に付き合うというわけである:
    • 荒唐無稽を意味深に見てしまう
    • 裸の王様の裸を見ないことができる