「自由」は,「‥‥から自由」のように使うことばである。
「自由主義」をそれ自体で立つ主義として定義することは,できない。
「自由主義経済」というときの「自由主義」も,「自由」の意味が「私的所有の無制限」であるから,そのまま肯定的に立てるものとはならない。
実際,「自由主義」は,せいぜい「自分本位」主義──この意味での個人主義──である。
しかし,「自分本位」は,「‥‥から自由」になれるわけではない。
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Hayek (1960b), p.193
進歩的であると考えられる大部分の運動が個人的自由にたいする侵害をさらに進めようと説いている時代に、自由を大切にする人たちはこれに反対するために精力を費やす傾向がある。
この点で、かれらは変化にたいして多くの場合、習慣的に抵抗する人たちと同じ立場に立っていることを見いだす。
当面の政治問題において、かれらには保守政党を支持する以外に通常、選択の余地がない。‥‥‥
自由の擁護者と真の保守主義者とを、それぞれの異なった理想を等しく脅かす動きにたいして、共同で反対させている状態から生じる混同は、危険である。
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ひとが現す「進歩主義」は,社会主義である。
「保守主義」は変化に対するアンチの構えであり,伝統に即こうとするときは伝統主義。
「自由主義」は,「自分本位」主義。
ついでに「民主主義」は,「十人十色」主義。
以上のカテゴリーは,互いに対立するのではなく,すれ違う。
「A or B」のように論ずるのは,カテゴリー・ミステイクになる。
Hayek (1960) は Hayek の自由主義論だが,「自由主義」のカテゴリー・ミステイクから論を起こすので,実践論──自由主義の制度を提案──の体裁ながら,観念論に終始してしまう。
そもそも,制度は──何であれ──また一つの (another) 全体主義である。
「自由主義の制度」は,論理矛楯である。
「民主主義の制度」は有っても,「自由主義の制度」は無い。
実際 Hayek (1960) は,「民主主義」と「自由主義」の混同がある。
つぎの認識に立って起こすことになる論は,自由主義論ではなくて,民主主義 (「十人十色」主義) 論である:
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Hayek (1960a), p.32
しかしいずれにせよ、われわれが同じ言葉を使っているからといって、これらのいろいろな「自由」は、同類のなかの異種であるとする言い方は避けなくてはならない。
これは危険な戯言のもとであり、きわめて馬鹿げた結論へ導く言葉の罠である。
権力の意味での自由、政治的自由および内面的自由の意味での自由は、個人的自由と同じ種類の状態をさすものではない。
われわれはあるものを多く得るために、他のものを少し犠牲にするやり方によっては、結局自由の共通の要素を得ることはできない。
われわれはこのような交換によって、あるよいものの代わりに、別のよいものを得ることもきっとあるだろうと考えるかもしれない。
しかし、このような自由のうえでの交換が及ぼす効果について語りうるとき、いろいろな自由のなかに一つの共通の要素があることを指摘することは、まったく蒙昧主義的でもっとも粗野な哲学的実在論である。
すなわち、それは同一の言葉でこれらの状態を記述するので、いろいろな自由がある状態のなかにも同じく一つの共通要素があるに違いないと想定するものである。
しかし、われわれは多くの場合、違った理由でこれらの状態を要求し、いろいろな自由があるかないかによって違った結果が生まれるのである。
もしそれらのなかから選択しなければならないとするならば、自由が全体として増大するかどうかを問うのではなく、違った状態のなかでどれをより高く評価するかを決めることによってのみ、われわれは選ぶことができるのである。
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- 引用文献
- Hayek, F.A. (1960) : The Constitution of Liberty
- Routledge & Kegan Paul, 1960.
- 気賀健三・古賀勝次郎 [訳]
(1960a) :『自由の条件 [Ⅰ] : 自由の価値』(新版), 2007.
(1960b) :『自由の条件 [Ⅲ] : 福祉国家における自由』(新版), 2007.
(西山千明・矢島鈞次 [監修] : ハイエク全集 I-5,7, 春秋社)
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