Up 「何れにしてなりとも敵をきる,と云心也」 作成: 2014-01-07
更新: 2014-01-07


宮本武蔵『五輪書』, 水之巻, 14「有搆無搆の教の事」の部分:
先,太刀をとりてハ,何れにしてなりとも敵をきる,と云心也。
若,敵のきる太刀を,うくる,はる,あたる,ねばる,さはる,など云事あれども,みな敵をきる縁也,と心得べし。
うくるとおもひ,はるとおもひ,あたるとおもひ,ねばるとおもひ,さはると思ふによつて,切事不足なるべし。
何事もきる縁とおもふ事,肝要也。
能々吟味すべし。
まず(何よりも),太刀を手に取っては,どのようにしてでも敵を切るのだ,という心持である。
もし(仮に),敵の切ってくる太刀を,受ける,張る,当る,粘る,触る,などと云うことがあっても,それはすべて,敵を切るためのものだ,と心得るべきである。
受けると思い,張ると思い,当ると思い,粘ると思い,触ると思うと,そのことによって,切ることが不十分になるであろう。
何ごとも敵を切るためだと思うことが肝要である。
よくよく吟味すべし。
『武蔵の五輪書を読む──五輪書研究会版テクスト全文』から引用)


    上に引いた『五輪書』の一節から聞こえてくるのは,肝心を心得ることの大事 (翻って「肝心の抜け落ちが, 人の常態」) である。

    「肝心の抜け落ち」には,つぎの2タイプがある:

    1.「素人は,肝心をしないで,無用・無駄ばかりをする
      教育実習での学生の授業は,「ワークシート → 机間巡視 → グループでの話し合い → ディスプレイ を型どおりに踏む」になり,肝心の「わかるようにする・できるようにする」がない。
    肝心がわからないので,形から入ることになり,これが「無用・無駄ばかりをする」になるわけである。
    肝心をやれるのであればプロだから,無用・無駄ばかりになるのはしかたがない。 しかし,肝心を心に留める者であるかそうでないかは,大きな違いになってくる。

    2.「修行は,肝心から外れる
      道の修行においては,肝心を心得ていることはあたり前のようだが,実際はそうではない。 人の修行は,肝心が抜け落ちた修行になるものである。