Up 科学生態学 : 要旨 作成: 2019-07-29
更新: 2019-07-29


    科学を立てることは,反照的に非科学を立てることである。
    このとき科学は,非科学を鎮めようとする営為である。

    科学対非科学は,真対偽ではない。
    合理対非合理である。
    科学は,合理と非合理を分ける理を立てていることになる。

    合理と非合理を分ける理を立てることは,宗教やイデオロギーでもやることである。
    科学が宗教やイデオロギーと区別されるのは,科学は「実証」を方法論に立てることである。
    翻って,学を自称しているが実証が方法論として立っていないものは,科学ではない。

      人文科学は,たぶんに「科学」の僭称である。


    「実証」を定めるとは,どうすることが実証になるかを定めることである。
    自称「学」は,この理が成って「科学」になる。

      例 :「コッホの原則」
        感染症の病原体を特定は,
      1. ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
      2. その微生物を分離できること
      3. 分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
      4. そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること

    しかし,「実証」を定めることは,実証になっているかどうかの判定が成ることではない。
    観察・実験の或る結果を「実証」と認めるかどうかは,結局,人である。

      上の「コッホの原則」でいうと,1〜4の充足を判じるのは人である。


    こうして,科学とは科学生態──ひとが「科学」を掲げるその生態──のことである。
    科学が発してくる「事実」は,この系のダイナミクスで「事実」となったものである。

      「重力波が検出できた」「ブラックホールが撮影できた」は,この類である。

    特に,ある命題が「事実」になるかどうかは,偶然による。
    人が集まると,個人を超越した「その場の空気」が醸成される。
    優位の者は「その場の空気」をリードしようとするだろうが,思惑通りにはいかない。
    こうして,妙な考えが定説におさまるということも起こってくる。


    科学生態系の要素のうちに,科学者のおかれる立場がある。
    <業績づくりを強いられる>である。
    このプレッシャーは,<見たい>ものを<見えた>にする。

    好例が,化石から古代の絵を描く古生物学である。
    学者は想像をたくましくする。
    ひとは学者を権威に見立てるから,学者の想像をはばむ者はいない。
    かくして,学者の想像はみな事実になる。

      生物学のテクストは,「35億年前に生命誕生」のことばがひとり歩きしている。
      「35億年前」は, 「バクテリアの化石」「メタン生成の痕跡化石」の地質の年代測定による。
      しかし,「バクテリアの化石」「メタン生成の痕跡化石」は,<見たい>から<見えた>の類である。


    科学とは科学生態である。
    科学が発してくる「事実」は,この系のダイナミクスで「事実」となったものである。
    しかしこれだと,科学は宗教やイデオロギーと同じレベルということにならないか。
    そうではない。
    雲泥の差がある。
    この差は何から出てくるか。
    「開いている」である。
    ──宗教・イデオロギーは「自閉・自足」である。