Up | 「現象」: 要旨 | 作成: 2019-09-19 更新: 2019-09-19 |
「熊の現象」のことばから想うのは,熊の姿格好。 よって熊の足跡は,せいぜい「ネガ現象」くらいの位置づけか。──姿格好を「ポジ現象」として。 しかし熊の姿格好は,<見る>を通したものである。 その<見る>の内容は,<光が熊に当たり,反射した分が目に届く>である。 この<反射した分>は,足跡と大差ない。 実際,足に留まらず体まで泥にドップリ浸かれば,姿格好にまでなるわけである。 結局,現象にはポジもネガもない。 かくして,存在を思わせる<しるし>はどれも,「存在の現象」である。 翻って,「存在の現象」とは,存在を思わせる<しるし>のことである。 実際,存在は,存在を思わせる<しるし>から立てられていることになる。 霧箱に入射したアルファ線は気体分子イオンの凝結線を現す,これを何かの飛跡と定めて「陽子」を立てる──といったぐあいである。 「現象」の学は,科学である。 ここに,哲学に「現象学」のことばがあることが,ミスリーディングになる。 それは哲学的言辞を弄する机上ゲーム であって,「現象」の科学とは無縁のものである。 哲学は,<自我>が思念の枠組になる。 <自我>を枠組にしてしまうのは,人間神を立てる文化の人間中心主義が,もともと哲学のお里だからである。 哲学が存在論をすれば,<自我>を枠組にする。 そこで,「現象学」みたいになるわけである。 <しるし>を感受し存在を思うのは,脳である。 こうして,「世界とは脳が世界としたものである」の主知主義的命題が立つ。 哲学は,この「脳」を「意識」に言い換えている様である──「世界とは意識が世界としたものである」。 しかし, 「脳」は「意識」に置き換わらない。 両者の違いは決定的である。 即ち,「脳」は動物全般に属する。 対して哲学が立てる「意識」は,人間 (<自我>) に属する。 |