(1)『存在と時間』の読み方
物事の見方において,人には「差異を際立たせて見る」と「差異を丸めて同型を見る」の2タイプがある。
哲学書を読むときは,前者はダメである。
哲学でこれをやる者は,哲学がわかっていない者である。
実際,哲学でひとが考えたり書いたりすることは,たかが知れている。
たかが知れているものであるから,それらは少数の類型に収まる。
哲学がわかっているとは,このことをわかっているということである。
『存在と時間』の存在論は,イデア論の系統のものである。
実際,この存在論の核心は,「存在者 Seiende の存在 Sein」を立てることであり,これはイデア論の図式「物事はイデア(実在) の像」をそのままなぞるものである。
したがって,『存在と時間』は,イデア論をある程度知っていないと読めない。
逆に,イデア論を知っていることは,『存在と時間』がナンボのものかがわかることである。
(2)『存在と時間』の方法論
『存在と時間』の存在論は,イデア論である。
イデア論では,物事はイデアのその時々の仮象ということになる。
イデアが実在であり,物事は像である。
ここで,「物事・イデア(実在)・像」を「存在者(Seiende)・存在(Sein)・現象(Phänomen)」に言い換えると,『存在と時間』の存在論になる。
イデア論の趣意は,「物事は,実在を隠蔽する」である。
そしてこの定立のこころは,<実在を捉える>の課題化である。
『存在と時間』の存在論は,「存在者の存在」を立て,「存在」は隠蔽されているとして,「存在そのものへ」を説くものである。
『存在と時間』の存在論は,現象学 Phänomenologie であるといわれる。
このときの「現象学」の意味は,「<実在を捉える>を課題にする学」である。
「存在」があることは,ことばによって約束されている (イデア論=言語写像論)。
「存在そのものへ」は,「ことばを導きにして存在そのものへ」である。
「ことばを導きにして存在そのものへ」を,「ロゴス λόγος」と謂う。
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細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, pp.88-90
λόγος は、あるものを、すなわち、それについて話されているものを、話しつつある者自身に (中動態)、もしくは話し合っている者たちにむかって、見えるようにする‥‥‥のである。
話が見えるようにするのは、‥‥‥話題になっているもの自体の方からである。
話が本当のものであるかぎり,話‥‥‥において話されることがらは、話題になっているもののなかから汲みとられているはずで、したがって、話し合う伝達は、その話の内容において、それが話している当のものをあからさまにし、こうして相手にも近づきうるものにするのである。
‥‥‥
さらにまた、λόγος が「見えるようにすること」であるがゆえに、それゆえにλόγος は真もしくは偽でありうるのである。‥‥‥
λόγος が「真であること」‥‥‥とは、話題になっている存在者を‥‥‥その隠れから取りだし、それを隠れもないもの‥‥‥として見えるようにするということ、要するに、発見する (entdecken) ということである。
同様に、「偽であること」‥‥‥とは、蔽いかくす (verdecken) という意味であざむくということ、なにかをあるものの前に(見えるようにするという仕方で) 置いて、それをそれでない別のものだと言いたてるということなのである。
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同, pp.92-95
「現象」(Phänomen) と「ロゴス」とについての解釈のなかで取りだしたことがらを具体的に思い浮かべてみると、このふたつの名称によって表示されていることがらの内的な連関が、ただちに眼に映ってくる。‥‥‥
現象学とは‥‥‥おのれを示すものを、それがそれ自身の方から現われてくるとおりに、それ自身の方から見えるようにすること、という意味である。
これが、現象学とみずから称する研究の形式的意味なのである。
ところが、そのようにして表現されるものは、上に表明しておいた「事態そのものへ!」という格率にほかならない。
‥‥‥
現象学が「見えるようにし」ようとしているのは、何であるのか。
格別な意味で「現象」と呼ばれなくてはならないものは、何であるのか。
それの本質上、必然的に、ことさらな挙示の主題となるべきものは、何であるのか。
それは明らかに、さしあたりたいていはむしろおのれを示さないもの、さしあたりたいていおのれを示しているものに対して隠れているもの、しかも同時に、さしあたりたいていおのれを示しているものにそなわっていて、それの意味と根拠をなしているようなものである。
ところで、格別な意味で隠れたままでいたり、あるいはまた隠蔽状態のなかへ転落したり、あるいはただ「歪められた姿で」おのれを示すにすぎないものは、あれこれの存在者ではなくて、これまでの考察が示したように、存在者の存在なのである。
それは、忘れさられ、それとそれの意味をたずねる問いが起こらずにいるほど、はなはだしく隠蔽されていることがある。
したがって、格別な意味で、それの固有の実質的内容から言って、現象となることを要求しているものを、現象学はその対象として主題的につかみとったのである。
現象学とは、存在論 (Ontologie) の主題となるべきものへの近づき方であり、そしてそれを証示的に規定する様式である。
存在論は、ただ現象学としてのみ可能である。
現象学的な現象概念がめざしている「おのれを示すもの」とは、存在者の存在であり、その存在の意味、それの変様態と派生態である。
そしてそれが「おのれを示す」ということは、決してありふれたことではなく、まして《現象》というようなことではない。
‥‥‥
現象学の現象の「背後には」、本質上、なんら別のものはひかえていない。
けれども、そこで現象となるべきものが、隠れているということはある。
そして、これらの現象がさしあたりたいていあらわに与えられていないからこそ、現象学というものが必要になるのである。
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同, pp.98,99
現象学的記述の方法的意味は、解意するということ (Auslegung) である。
現存在の現象学の λόγος は、ἑρμηνεύειν という性格をそなえている。
すなわち、このはたらきをつうじて、現存在自身にそなわる存在了解に、存在の本来的な意味と、現存在自身の存在の根本的諸構造とが打ち明けられるのである。
ἑρμηνεύειν とはがんらい解意の仕事を指す言葉であるが、現存在の現象学は、この根源的な語義における解釈学 (Hermeneutik) なのである。
ところが、存在の意味と現存在の根本構造とを打開することによって、一般に現存在的でない存在者についてのあらゆる自余の存在論的探究の地平も取りだされるのであるから、この解釈学は同時に、あらゆる存在論的考究の可能条件を開発するという意味での「解釈学」にもなる。
‥‥‥
存在と存在構造とは、いかなる存在者をも超え、存在者のあらゆる存在的規定性をも超えたところに位する。
存在は絶対的超越 (das transcendens schlechthin) である。
現存在の存在の超越は、そのなかにもっとも根底的な個体化の可能性と必然性とが伏在しているかぎり、殊別的な超越である。
transcendens (超越) としての存在を開示することは、すべて、超越的認識である。
現象学的真理 (存在の開示態) は、veritas transcendentalis (超越的真理) である。
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イデア論を汲む哲学は,「超越的真理」信仰の宗教に進む。
──呪文は, 「λόγος」。
(3)「実存」
「実在 = 隠蔽されている実在」であるから,実在を捉える作業は,<実在隠蔽のメカニズム>の押さえから開始されることになる。
何が実在を隠蔽しているか?
ひとの感覚や臆見や迷信とかである。
そこで,<実在隠蔽のメカニズム>を押さえるという主題は,感覚や臆見や迷信で物事を捉えてしまう<人>を押さえるという主題になる。
『存在と時間』の存在論では,<人>は「現存在 Dasein」の術語を以て一般化されて論じられる。
──「現存在 Dasein」の存在身分は,「存在者 Seiende の存在 Sein」の「存在者 Seiende」の方である。
さて,実在隠蔽は,人の存在様相に含まれるものである。
そこで,実在隠蔽と係わる「人の存在様相」を主題化しようとなる。
しかし,これは一筋縄ではいかないものになる。
そこで,この一筋縄ではいかない「人の存在様相」を,「実存 Existenz」のことばを用いて論点先取する。
(4) 挫折
「実存 Existenz」は,論点先取で終わる。
その先が続かない。
実際,先が続いたらおかしなことになる。
現前は途轍もない複雑系である。そして,今に至るまでの物理的・化学的進化の結果である。
それは,プラトン,アリストテレスの時代だから想われる「イデアの像」などという単純なものではない。「イデアの像」を言い出せばいくらイデアがあっても足りない。
存在の問題は,圧倒的「不可思議」であり,「隠蔽」がどうのを言う以前のものである。
「実存 Existenz」を持ち出して論がいかばかりか進むというものではない。
『存在と時間』の中のつぎの言は,自分に返る:
細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, p.36
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存在問題を理解するうえでの哲学的な第一歩は、‥‥‥「おとぎばなしをする」のをやめる keine Geschichte erzählen ということである。
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おとぎ話をまじめに引き摺ると,言い回しが畸形になり,畸形の度を増すばかりとなる。
そして「畸形のなれの果てがこうである」を『存在と時間』が身をもって教えてくれるというわけである:
細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, p.100
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以下の分析のなかで用いられる表現がぎごちなく Ungefüge「見ぐるしい Unschöne」という点について、ひとこと付言しておきたい。
存在者について物語りつつ報告するのと、存在者をその存在においてとらえるのとは、まったく別のことがらである。
後者の課題を遂行するためには、たいていの場合、そのための言葉が欠けているだけでなく、とりわけ「文法」も欠けている。
この点について、昔の──その水準の高さではくらべようもない──存在分析的な研究に言及することがゆるされるなら、プラトンの『パルメ三アス』にふくまれている存在論的な章節やアリストテレスの『形而上学』第七巻第四章などを、ツキディデスの物語的な一節とくらべてみていただきたい。
そうすると、ギリシア人たちにその哲学者たちが無理強いした言語表現がいかに未聞のものであったかがわかるであろう。
まして、身にそなわる力がはるかに乏しく、その上、開示さるべき存在領域がギリシア人の目前にあったものよりも存在論的にはるかに困難なものであってみれば、概念形成のまわりくどさや表現の生硬さは、いよいよはなはだしくなるであろう。
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