Up 「悪人正機」: ルターの「信仰義認」と同じ 作成: 2010-06-17
更新: 2010-06-17


    宗教改革でルターは「信仰義認」を説く。
    「信仰義認」は,「行為義認」に対置して立てられる。

    「行為義認」とは,「神は善い行いを義とする (→ 悪行をするな)」である。
    当時のカトリック教会はこれを説き,そしてこの説によって自ら腐敗する。
    すなわち,スキャンダルの摘発というやり方で,自分たちに与しない者を粛清していく。
    ひとはスキャンダラスな存在であるから,陥れることはたやすい。
    また,「教会の懺悔室」がこれに利用されたとも言われている。「相手を信じて懺悔した自分の言が,相手から自分を陥れるのに使われる」という絵図である。

    「信仰義認」とは,「神は善い信仰を義とする (← 悪行は人の自然)」である。
    ルターは,この意味で「聖書に還れ」と説く。

    教会に対する宗教改革のパターンは,だいたいがこのようである。
    すなわち,「<善行>の管理・統制への反対」を基調にする。


    「聖書に還れ」を人の業務に適用すれば,「業務の本来の姿に還れ」となる。
    「信仰義認」を人の業務に適用すれば,「人がスキャンダラスであることは,業務と関係ない」となる。──実際,ルターもこのレベルまで言うわけである。

    「業績評価」「服務規律」は,「行為義認」である。
    「行為義認」のロジックによって,これが「正義」になる。
    そこで,これに対して異論を立てる形は,「信仰義認」である。


    親鸞の「悪人正機」も,「信仰義認」と同じふうに読める。
    すなわち,「行為義認」の者が「善人」であり,スキャンダルを存在の自然とする者 (=親鸞) が「悪人」である。
    そして,「信仰義認」に近い者は後者であるから,「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」になる。
    言っていることは,逆説でもなんでもない。