大学院の定員割れが本質的・構造的なものであるとき,それは時代の流れになっている。
(「時代の波/流れ」の理解)
さらに,社会的需給の状態が変わらなくて大学院定員割れが起いているとき,それはつぎが内容になっている:
「大学院」幻想が壊れた
「大学院」幻想が飽きられた
(本論考が主題化する「定員割れ」は,この意味の「定員割れ」である。)
大学院には,「大学院」幻想をもった者が来る。
「大学院」幻想とは,
「大学院 = ほんとうに高度な学問が行われるところ」
である。──実際,つぎのような気持があるから,大学院に入ろうとする:
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「大学院にいるのは特別な者であり,自分もその一人になりたい」
「自分もそのような者になれる」
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逆に,つぎのように思われるようになったら,大学院に人は来なくなる:
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「大学院は,<ほんとうに高度な学問が行われるところ>というのでは,どうもないらしい」
「<高度な学問>は,やる分にはずいぶんたいへんであり,そしてそんなにおもしろいものではないらしい」
「大学院に入ってよかったという話を,あまり聞いたことがない。」
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大学院にもライフサイクルがある:
- 立ち上げのステージでは,ひとが勝手に「大学院」幻想を抱き,大学院に入りたいと思ってくれる。
大学院受験にひとが多く集まり,合格倍率が高くなる。
- つぎに,「大学院」幻想の減衰期が来る。
「大学院はそんな夢をもつようなところではない,甘いところではない」の事実がわかってくる,広く知られてくる。
大学院を受験する者の数が減り,合格倍率が低くなる。
- そして,「大学院」幻想の終焉期が来る。
大学院を受験する者の数が一気に減り,定員割れが常態になる。
- つぎに世代的忘却期がくる。
「大学院」が,新鮮なことばになって再登場する。
(以下,これの繰り返し──ただし,状況がこの運動を許す限り)
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註 : |
ここで注意しなければならないのは,「大学院」幻想の減衰・終焉は,定員割れの十分条件だが必要条件ではないということ。
現前の「定員割れ」をどうとらえるかは,たいてい,難しい問題である。
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「大学院」幻想は,外からの作用 (社会的なブーム) が特に起こらなければ,また,内からのアクションを特に起こさなければ,自然に減衰する。
( 受験生減少は, <惰性まかせ>の現象)
一方,見当違いの作用・アクションを起こせば,かえって減衰を早める。
「大学院3次募集」は,この「見当違いのアクション」の一つである。
ちなみに,「教職大学院」は,立ち上げた時点で既に「教職大学院」幻想が萎んでいる感がある。
一般に,思惑先行でやってしまい理論構築をなおざりにするとき,幻想の形成が起こらない。
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