Up 財政健全化を「改革」によって行うというイデオロギー 作成: 2010-07-18
更新: 2010-09-11


    小泉政権では,財政健全化の取り組みは「改革」の取り組みのことになった。 「財政を不健全にしている人・システムがあり,これを正すことによって財政は健全になる」という発想である:

      財政を不健全にしている人・システムは,端的に,たかる者・働かない者と,このような存在を許しているシステムである。 これらが,一生懸命働いている者に寄生している。
      システムの改革は,市場原理が貫徹するようにすることである。
      市場原理が貫徹するとき,ひとは生きるために競争しなければならない。 この競争の中では,たかる者・働かない者は存在できない。 排除されるか,それが嫌ならば一生懸命働く者へと更正するか,である。 ひとが一生懸命働けば,経済がよくなり,財政も立ち直る。 めでたし,めでたし。

    こんなふうして世の中はうまく改革されると考えるのは、イデオロギーである。
    実際、このやり方は成功しない。 ひとは、この絵図に乗ってこない。
    ひとがこの絵図に乗ってこないのは、ひとの意思の問題なのではなく、絵図の次元の問題である。
    3次元のものを2次元の絵図におさめようとすれば、多くのものを考えない (捨てる) ことになる。 ひとの社会の複雑系をイデオロギーの低次元絵図に無理におさめようとすれば、系を壊すことになる。 系は、この無理に反逆する。

    「改革」の絵図は、「優勝劣敗」の淘汰の絵図である。
    ひとは、確かに、淘汰される側に自分が陥ることに抵抗する。 しかしこのときの要点は、《優勝劣敗の淘汰に甘んじない》の形がどんなものになるかである。
    絵図が描くような、《正々堂々の競争に打って出る》のようにはならない。 《不正義を以て状況をしのいでいく》のようになる。 優者ではない者の「一寸の虫にも五分の魂」は、このように現れる。
    そして、世の中はこの<不正義>でおかしくなる。

    「勝ち組・負け組」も単なる絵図である。 「勝ち組」など存在しない。 競争が、<勝つ>というゴールをもたない競争だからである。