Up 国立大学の位置づけ/理念の変更へ 作成: 2008-10-08
更新: 2008-10-08


    国立大学の学則は、大学の位置づけ (「理念」) で始まる。
    これを「大学設置基準の一部改正に伴い,教育研究上の目的を明確にする」ように変更することが,教育行政の方から大学執行部の方に通達されているようだ。
    この「明確にする」は,「国立大学法人化の路線に添う」の含意として解釈される。

    大学執行部は,これに応じて,現文言の「改正」を行う。


    「コンプライアンス」「グローパル化 (米国流化)」が流行になったが,「教育研究上の目的を明確にする」は,この流れの上にある。

    「教育研究上の目的を明確にする」の問題構造は,「外延的 -対- 内包的」である。
    ここでの「明確にする」は外延を書き並べるということであり,これは米国流。
    学術の立場は内包指向であり,したがって自ずとこれを批判するものになる。
    ( 規則量産現象の意味──内包と外延)

    実際,学術の立場では,大学の理念などは「高度教育・研究を,真摯・高潔にやる」の一言でよいのである。 「真摯・高潔にやる」が「社会貢献」と重なり,また,ときに「地域」とかに重なったりもする。
    逆に,「地域」指向みたいのを大学の理念に書くというのは,学術的には転倒しているのだ。 しかし,この転倒がいまの時代には見えなくなっている。 ──「流行」と謂う所以である。


    大学の位置づけ/理念の文言変更は,大学の位置づけ/理念の変更になる。

    このたび「改正」しようとしているのは,学則で「大学の位置づけ/理念」を述べている箇所である。 国で言えば,憲法の第1条。
    大学の寿命は,この規則の寿命として考えられるものになる。

    国立大学の寿命の考え方は,「国の寿命」と「学術の寿命」の両方に重ねて考えるというものである。 そこで,自ずと長い寿命を考えることになる。
    長い寿命のものにするために,「国立大学」の意味・本分をしっかりとらえようとする。そして,これを「本学の理念」の趣きで学則第1条に書く。

    そこで,「改正」を学術的に主題にするとき,「寿命 (ライフスパン, 一生)」を「改正」の要素にすることがいちばんの要点になる。
    規則/スローガンには,寿命がある。
    流行りに乗ってつくった規則/スローガンは,流行りの終わりとともに陳腐化する。
    長い寿命を保つ規則/スローガンは,結果として,本質的であったことになる。

    しかし,「改正」ということばを以て一つの方向付けが外部から与えられ,それに従わねばならないという思いになるとき,ひとは自らその方向付けを重要なものと定める。 そしてこのとき,重要なものにするために邪魔になるのが,寿命の考え方である。 「百年・千年の計」という考え方が退けられる。

    しかも,流行に乗るときには,端(はな)から「寿命」を思考停止している。(「寿命」を思考停止)


    いま,国立大学の「法人化」は,ターニングポイントに至っているように見える。
    「国立大学=法人」の論理矛楯はいろいろとおかしいことに現れずにおれないが,現にこうなっている。 「国立大学の法人化」の寿命は,せいぜい後10年くらいのものである。

    教育行政からオリエンテーションをもらうと,国立大学は萎縮し,自分のインテリジェンスを忘れてしまう。
    国立大学は,「国立大学の法人化」を「国立大学の文明開化」と受け取った。
    一般に,「文明開化」では,人は自分の文化を恥じて捨ててしまう。(「文明開化」気分:自分を恥じ・自分を捨てる)
    しかし,勉強しなければならない・指導されねばならないのは,教育行政 (文科省の人間) も同じである。 ──実際,国立大学の教育・研究のことをいちばんわかっていなければならないのは,国立大学自身である。
    国立大学の位置づけ/理念の文言変更の問題は,結局「国立大学のインテリジェンス」の問題に行き着く。 (「法人化」が国立大学の愚になる構造)