Up 要 旨 作成: 2009-01-05
更新: 2009-01-05


    「アカハラ」──教員の考える<学業を課す>を学生がハラスメントと受け取るタイプの「アカハラ」──は,基本的に,教員の失敗としてよい。 そしてこの失敗は,結局,教員の未熟に帰せられる。

    <学業を課す>は,教員と学生が互いに納得し合うことで成立する。
    納得に至るための方法は,コミュニケーションである。 このコミュニケーションの概念ないし方法を,教員・学生のどちらか,あるいは両方がわかっていないとき,ハラスメントへの進行の余地が出てくる。


    大学における学生の学業は,学生が主体的に設計することになっている。 ただし,知らない世界で主体的になることはできない。 そこで教員が,学習効率と学生の主体性の余地のバランスを考えて,学業のフレームを設定し,学生にこれを示してやる。

    「学習効率」の意味は,「教員が自分の得意を発揮できる効率」である。
    教員が専ら自分の得意を考えるときは,<学業を課す>は<押しつけ>になる。
    逆に,自分の得意を引っ込めてしまえば,適切な指導ができず,学生の主体性は空回りするものになる。
    教員は,この二極を避けて,中間の適当なところを判断する。
    また,この判断では,個人差 (「個の多様性」) を考えに入れることが必要になる。

    学生は,教員のこの提案に主体的に対するものでなければならない。
    翻って,教員は,学生を「教員の提案に主体的に対することのできる学生」にしていなければならない。 これをするのは,学生に主体性を教える直接指導であったり,主体的でなければならないと思わせる雰囲気の醸成である。

    「アカハラ」は,以上のことがしっかりできていないところで発生する。