Up 「指導」プロセス : 要旨 作成: 2013-12-14
更新: 2013-12-14


    「指導」は,処罰でない処分として案出されたものである。
    「指導」成立の規準 (criteria) は,「反省が成った」である。
    ただし,これを「処分」にするためには,「反省が成った」を形にしなければならない。 これが「反省文」である。

    「不祥事」は,「規則遵守義務不履行」である。
    そして,「規則遵守義務不履行」はだれでもやることである
    実際,「規則遵守義務不履行」を大なり小なりやることは,「生活」の含意である。 ──「規則遵守義務不履行」を悪にして厳に退けることをやったら,生活は成り立たない。

    「規則遵守義務不履行」では,摘発される者の一方で,摘発されずに済む者がいる。 この構図において,摘発された者は「しくじった者」である。
    「しくじり」に対する回心の形は,「後悔」である。
    「反省」 (「悪いことをした」) ではない。

    「指導」は,「反省」の形をつくるものである。
    「反省」の形をつくることは,無理をすることである。
    そこで,「指導」は,「指導」側と学生の協同作用というものになる。
    それぞれが,ロールプレイをするわけである。

    ロールプレイは,互いに相手の役割を理解していることで成り立つ。
    学生は,「指導」側が「反省文」を成果としてもち帰らねばならない立場であることを理解して,これにバランスよくに協力する。
    「指導」側は,学生のやったことが「しくじり」であることを斟酌して,バランスよく処置する。
    バランス感覚が狂うと,「指導」は逸脱や人権蹂躙になっていく。

    なお,「指導」側が,「後悔」(「しくじった」) を「反省」(「悪いことをした」) にまで導くことが正しいことだと思っているとしたら,それは勘違いである。 「指導」の逸脱や人権蹂躙は,だいたいがこの勘違いがもとである。

     註 :あなたの不祥事の後始末に付き合わされている者の迷惑のことを思ってみよ」は,「後悔」を「反省」へと導くものになるだろうか?
    ならない。
    なぜなら,ここで「迷惑している者」とは,「不祥事」をつくり出すシステムをつくってきた者たち自身だからである。 翻って,不祥事を起こした者は,このシステムのために迷惑している者だからである。
    実際,「不祥事」をつくり出すシステムは,いまに始まったものである。 以前の大学には,見なかったものである。
    「指導」側にこの「相対化」の視点がもたれていないとき,「指導」は「指導」側の独善の場になるおそれがある。