Up 「大学の自由」の意味:信仰義認 作成: 2010-06-17
更新: 2010-06-17


    むかしの大学は,自由でおおらかで(そして多分にスキャンダラス) であった。
    それは,「信仰義認」に立っていたからである。

    いまの大学は,どの行為にもマニュアル/規則があって,そのマニュアル/規則に従って行動する。
    いまの大学人は,「正しさ・適切さ」をマニュアル/規則に求める。 なにをするにも・始めるにも,マニュアル/規則がないと安心できない。 マニュアル/規則をつくり,行動をマニュアル化/規則化する。
    それは,「仕事」の意味が「業績として評価されるもの」になり,そして「評価」がマニュアル/規則化されるようになっているからである。
    また,マニュアル/規則に従っていないことが「服務規律」違反となり,そのために下手ができなくなっており,そして下手をしないためにはマニュアル/規則に依らねばならないからである。
    このように,いまの大学は「行為義認」に立つ。。
    そしてこのことで,自由・おおらかさを失う。

    「信仰義認」が「行為義認」に転じるのは,なぜか?
    ルターが批判した「行為義認」のカトリック教会にしても,「信仰義認」から始まったのである。

    組織は,「信仰義認」から始まる。
    やがて成功して<立派>になると,<立派>を保たねばならないと考えるようになる。
    ところで,組織では,<立派>を損なうことがふつうに起こる。
    <立派>を保つためには,<立派>を損なうものを抑え込み,封じ込まねばならない。
    そこで,「行為義認」に転じる。

    大学は,「信仰義認」から始まる。
    いまの大学は,「生き残り」のために生きる。
    そして,「生き残るためには,<立派>を保たねばならない」というふうに考える。
    ところで,組織では,<立派>を損なうことがふつうに起こる。
    <立派>を保つためには,<立派>を損なうものを抑え込み,封じ込まねばならない。
    そこで,「行為義認」に転じる。

    このように,「行為義認」が,いまの大学を理解するキーワードである。
    いまの大学は,むかしの大学ではない。
    むかしの大学は「信仰義認」で,いまの大学は「行為義認」である。

    しかし,「行為義認」でやっていくのがこれからの大学かというと,問題はそんなに単純ではない。
    そもそも大学は,「信仰義認」に拠って自らを立てるから「大学」である。 「行為義認」と「信仰義認」は,大学にとってどちらがよいか?という問題ではない。 「行為義認」は,大学の自己否定である。
    しかし,「<立派>を保つ」を自分の生き方と定めた大学は,「行為義認」を自分の拠って立つところとしていかねばならない。 いまの大学は,絶対矛盾の立場に己を立たせている。