Up 要 旨 作成: 2007-06-06
更新: 2007-06-06


    組織(システム/制度)は,つくられたものではなく,できあがったものなのだが,今日の<知>はこの区別がつけられない。

    「できあがったもの」の意味は,「条件充足や均衡化の多様な作用が綿々と続いた歴史があり,ボトムアップでできあがってきたもの」。
    それは複雑系である。

    ところが,今日の<知> は,「条件とか力学とか歴史といったものが根本だ」のとらえがアタマに無くて,できあがっているものを見て,それの形を真似ればそれをつくれる(トップダウンでつくれる)と思ってしまう。


    哲学/世界観がひどく幼稚になっている。
    特徴的には,企業経営学が哲学/世界観になっている。
    経営学の<分限>というものが,わからないわけだ。
    そして,国家,大学,等々,「組織」をみな「企業」に見立てる。

    今日の俗流経営学は,<生き残り>から始める。
    生き残りのための「トップのリーダシップ」「スピード経営 (短期主義,意志決定の速さ)」「商品付加価値/差別化」を課題にする。
    一見それらしくに聞こえるが,まともに考えれば,ばかなことを言っている。

    実際,例えば「商品に付加価値をつける/差別化す」で何が起こっているか?
    改良されたものが出てくるのではない。変テコなものが出てくる。
    「消費者の目先を変えることによって商品が売れる」が短期的に実現されれば成功というわけだから,変テコでかまわないわけだ。


    法人化の国立大学は,俗流経営学のアタマでものを考えるところになった。 そしてこのアタマは,できあがっているものを見て,それの形を真似ればそれをつくれる(トップダウンでつくれる)と思うアタマと,一つになっている。
    「制度/システムをアメリカナイズ (カタカナ語化) し,俗流経営学で大学を運営する」──これが,国立大学がいま一生懸命にやっていることである。

    歴史の視点をもてない今日の<知>は,「生き残る」が<生きる>の在り方だと思う。「生き残り」のことばを使うことを,理知的だと思う。経営学の分限に対する無知をさらけ出すような具合にそのスキームを持ち出すことを,理知的だと思う。
    この<知>は<生き残り→なりふりかまわず>バブルに嵌っているのだが,自分ではこのことがわからない。

    国立大学はこの<知>と心中し,変テコなことをやり,変テコな姿になり,そしてやがてバブルがはじける時を迎える。