Up 改革を行えるのはよそ者・若者・ばか者」の意味 作成: 2007-05-18
更新: 2007-05-18


    改革を行えるのはよそ者・若者・ばか者」は,普通は,「よそ者・若者・ばか者」に好意的なつぎの意味で使われる:

      改革は,しがらみを断たなくてはできない。
      しがらみを断てるのは,よそ者・若者・ばか者である。

    ここでは,これのもっと深い含意を示すとしよう。


    「改革」は,現行をいじって変えることである。
    現行は,複雑系である。
    「複雑系」であるという意味は,何かをいじって変えることが,思いもよらないものを引き起こす可能性があるということ,特に,とんでもない破壊行為になるかも知れないということである。

    地元の者は,現行を複雑系として経験している。 現行を構成している要素が互いに有機的につながっていることを感じ,あるいはそのつながりのメカニズムを知っている。
    そこで,現行をいじって変えることの「破壊」的内容を,推測・推理できる。
    そして,「改革」に対して慎重になる。改革派の側から言うと,保守的になる。

    逆に,「改革」を行えるためには,現行があまり複雑系には見えないこと,破壊に及ぶ連鎖が見えないこと,被害ないしその大きさがわからないこと,また,被害者の痛みをひどく感じなくて済むことが,必要になる。
    そしてこのような者はといえば,「よそ者・若者・ばか者」になるわけだ。

      註:このときの「若者」は,「学習/経験が足りない者」の意味。


    さて,「法人化=改革」は教育・研究の破壊になる。
    そして,教育・研究の「改革」では,事務方は「よそ者」として改革派の一翼を担う。(「教員と事務方で考え方が違ってくる理由」)

    • たとえば,札幌校の教員養成課程の再編は,総合的学習とか教育臨床とか実学の発想の主導で,教科教育の枠組みを壊した。学問は体系で立ち,また体系的な学習の修得が,学校教員に必要な教育力の基幹形成になる。上っ面の「実学」指向は,実学が拠って立つ根底に無自覚の相である。
      しかしこのことは,教育・研究を専門とする者でなければ理解するのが困難である。──部外者は,札幌校の教員養成課程の再編が「改革」だと言われたら,その通りに受け取るだろう。

    • 上のように言うと,教科教育の枠組みを壊したのは教員自身ではないか!「教育・研究を専門とする者 (=教員) でなければ理解することが困難」と矛盾する!の反論があるだろう。──実はこのときに「よそ者・若者・ばか者」のうちの「ばか者」を使うことになる。