Up バブルと下知体制の結合 作成: 2007-05-19
更新: 2007-05-19


    国立大学の「法人化」として,大学執行部が取り組んでいるのはつぎのものである:
    • 経済主義に立つ経営
    • 教育・研究の「改革」
    これらは国立大学法人評価委員会/文科省によって評価を受けるものであり,実際,国立大学がこれらを行うのは点取り主義の立場からである。

    この取り組みで大学執行部は,「状況はまことに厳しい」「甘いことを言ってられない」を理由のことばにして,「なりふりかまわず」を行動として択ぶ。


    時代の流れの中では,つぎのような一時期が繰り返し現れる:
      <生き残り>のために「なりふりかまわず」を行うことが,理性的であると受け取られる。
      併せて,「状況はまことに厳しい」「甘いことを言ってられない」を言うことが,理性的であると受け取られる。

    理の当然として,<生き残り>の「なりふりかまわず」は,失敗する。
    そして,なんであんなことを「理性的」と受け取っていたのだろうと,自らを恥じ,後悔する。
    そのとき何が起こっていたのか?──<狂気>のバブルである。


    いまの国立大学では,経済主義に立つ経営,点取り主義の「改革」に取り組むことが「理性的」。 しかし,実際やっていることは,

      「資源の重点的集中」と言いながら,本質的でない/つまらないことを点取り主義でつぎつぎ考え出しては,資源の撒き散らし/蕩尽をする。
      「改革」と言いながら,本質的でない/つまらないことを点取り主義でつぎつぎ考え出しては,教育・研究体制を壊していく。

    「国立大学」としてやらねばならないことを考え行うというのではない。やっっていることは,

      一弱小大学の立場に立ち,生き残るための営業活動をせっせと考え,個人の仕事における営業活動の割合を増やし,営業活動の実績づくりを行う。

    国立大学の「法人化」を主導している経済財政諮問会議の経済界「有識者」委員なら,「国立大学もやっと民間企業並みの努力をするようになった」と喜ぶところだろうが,こんなのは国家的/国民的には損失である。

      註 : ちなみに,「○○もやっと民間企業並みの努力をするようになった」が妥当になるもの・ならないものがわからない知性が行政に「有識者」としてやたら関わるようになるのも,「バブル」の内容の一つ。


    さて,バブルははじけて終わりなのだが,固いバブルの形成に進んだときには,組織の壊滅的破壊がバブル終焉の形ということになってしまう。

    経営実務は,事務方が行う。 事務方は,下知のシステムをもつ。
    大学執行部のアタマの中のバブルは,事務方の下知のシステムによって,大学執行部・事務方が合わさったバブルになる。
    このバブルは,システムが固定するので,固い。 問題がいろいろ生じても,頑固に壊れようとしない。 壊れるときは,大学組織全体を道連れにする

      例 : 「教員と事務方の間の問題意識の乖離」で引用した総務部長論文は,現大学執行部の推薦する候補への推薦・支持を下知として遺しているが,事務方においてはこれは違和感のないものである。