Up 結語 (2007-06-07 時点) 作成: 2007-06-07
更新: 2007-06-07


    法人化の国立大学は,俗流経営学のアタマでものを考えるところになった。──「生き残り」が国立大学の正しい在り方だと思う。「生き残り」のことばを使うことを,理知的だと思う。経営学の分限に対する無知をさらけ出すような具合にそのスキームを持ち出すことを,理知的だと思う。

    そしてこのアタマは,できあがっているものを見て,それの形を真似ればそれをつくれる (トップダウンでつくれる)と思うアタマと,一つになっている。
    「制度/システムをアメリカナイズ (カタカナ語化) し,俗流経営学で大学を運営する」──これが,国立大学がいま一生懸命にやっていることである。

    「知の府」のようなイメージのある国立大学が,このような低劣な<知>が遍く場に簡単になってしまったという事実は,研究的立場からはひじょうに興味深い。


    国立大学の<知>の低劣化は,学問の意義を再認識させる。

    学問の道具性は,人を失敗・危険から守ることにある。
    失敗・危険に対して無防備であり,簡単にそれに陥る相を「愚か」と謂う。
    この「愚か」を改善しようとする営為が,学問。

    ひとは,低劣な<知>に簡単に乗せられる。低劣な<知>のバブルをつくる。
    そして,これまで営々と苦労して築いてきたものを,簡単に捨てる/破壊する。
    このことを,歴史学はよく知っている。
    しかし,歴史は繰り返す。

    この愚かさを退けることが,学問を立てる意義。
    そして,学問の最高の府が「大学」ということになっていた。
    しかし現実は──国立大学は,低劣な<知>を信奉するアタマが<生き残り>バブルで舞い上がる。

    学問を語る者は学問がカラダに入っている者とイコールではない,ということだ。
    国立大学は学問を語る者の棲む場だが,学問がカラダに入っている者の棲む場ではなかった。
    このことを,「<生き残り>バブルの国立大学」という現実が示した。