Up 身内学生限定の制度 作成: 2009-07-19
更新: 2009-07-19


    教員免許をとりたいなら,大学院へ」は,「修練」を「単位」に置き換える虚偽を用いて実現しようとしているものならば,これを退けねばならない。
    「修練」を「単位」に置き換える虚偽とは無縁な「教員免許をとりたいなら,大学院へ」は,身内の学生を想定するものであれば,可能性がある。 身内の学生の場合,「実質的に,教員養成課程を通ってきている」を考えることができるからである。

    そして,このときの「教員免許をとりたいなら,大学院へ」の制度は,身内学生限定の制度になる。
    これは,「実質的に,教員養成課程を通ってきている」の条件に照らして,学生差別を行う制度である。 これを行うということには,「差別」のクレームが学生から出てきたときこれに臆するものではないということが含意されている。

    しかし,このような認識をもって制度が始められたとしても,後になって,学生からの「差別」のクレームに臆したり,教員の中から「学生間の不公平」が言い出されるといったことは,大いにありそうなことである。

    混乱しやすいところなので,要点を整理しておく:

    1. 大学院不況に対する策として大学トップが実現したがっているところの「教員免許をとりたいなら,大学院へ」は,学生間の差別をしない。 学生間に差別を設けないのは,「単位」イコール「修練」にしているからである。 しかし,これまで論じてきたように,「単位」イコール「修練」は虚偽である。 これを行えば,大学院および教員養成のモラル低下となる。そしてこれは,大学院および教員養成の信用失墜の構造になっている。

    2. 教員免許をとりたいなら,大学院へ」は,身内学生限定の制度としてなら,可能性が考えられる。
      この制度は,身内の学生とその他の学生の間に差別を設ける。大学院および教員養成のモラル低下を起こさせない方法が,<差別>である。
      しかし,この制度に対し,後から「学生間の不公平」を指摘する声が必ずあがる。世代忘却もこれに与る。

    ちなみに,「公平」の意味は,「同じ条件にある者は,以降の扱いにおいて差がつけれらることはない」である。 そしてこの制度は,身内の学生とその他の学生を同じ条件にあるものとはしないわけである。