Up はじめに 作成: 2009-07-16
更新: 2009-07-16


    「法人化」の国立大学は,「大学評価」の査定の下におかれる。
    ここに,大学院不況がある。
    大学院不況は,経済不況と同じく,大きなバイオリズムの中の一局面として必然的なものである。 しかし,国立大学の執行部は,「大学評価」に恐々としなければならない立場に,自らを立たせている。 そこで,大学院不況に蓋をしようとして,<なりふりかまわぬ>策に手を付け出す。 禁じ手に手を出してしまう。

    この<なりふりかまわぬ>策として現実にいま起こっているのが,大学院を教員免許を取れる場にしようとするものである。

    ひとは,対象の意味(what)・理由(why) のとらえ,複雑系としてのとらえを,ひどく苦手とする。 実際,生活は how (if-then) で営まれ,what, why の閑却を常態とする。 そこで,what, why という形の問いが向けられると,口ごもるばかりとなってしまう。

    「大学院を教員免許を取れる場にする」が唱えられる大学においては,大学院,教員免許の意味・理由のとらえ,複雑系としてのとらえが閑却され,「大学院を教員免許を取れる場にする」の含意 (implication) が閑却されている。 <なりふりかまわぬ>と謂う所以である。

    そこで,本論考において,この閑却を主題化してみることにする。
    ただし,簡潔を趣旨とすることにして,また時間的・体力的キャパシティーの理由もあって,実際には,<この閑却を主題化するフレーム>を示す小論として収めることにする。