Up 要 旨 作成: 2006-08-11
更新: 2006-08-11


    2007年には大学志願者数が大学の入学定員を下回るとして,「大学全入学時代」などと言われている。

    実際には,大学には大学としての課程があり,全員がこの課程を修了できる力 (適性) があるわけではない。 よって仮に「大学全入学」が実現するとしたら,そのとき「大学」はつぎの2つのカテゴリーに分かれている:

    1. 大学の課程を行うもの
    2. 大学の課程をやめ,程度を下げた擬似大学課程を行うもの


    社会/世間も,A大学と B大学を区別する。
    組織・建物に「大学」の名を冠しただけで「大学」の社会的認知をもらえるわけではない。
    B大学は,名前に「大学」がついているので A の大学群に紛れ込めると思ったら,大間違い。 世間の目を欺ける時間は僅かだ。


    大学教育をよくわかっていない/まったくわかっていない者が,ちまたの経営本から一部を稚拙に抜き出す態で,つぎのように言う:

      大学全入学時代の到来で,少ない入学者をめぐって学校間の争奪合戦が激化する。
      大学全入学時代は,「学校が入学者を選ぶ」が「受験生が学校を選ぶ」に転ずる<顧客中心>の時代。
      大学は,教育サービスの充実やその他付加価値で,この顧客中心時代に対応しなければならない。

    そしてこれにのせられるように,旧帝大・旧国立1期クラスの大学までもがそわそわし出す。


    世間が「大学」と認める大学の場合,入学志望者は「教育サービスの充実やその他付加価値」でその大学を選ぶのではない。 「大学」としての評価が高いから,選ぶ
    志望者は,「大学」としての評価が高いということを,つぎのように受けとるわけだ:

      そこでは確かな授業を受けることができ,確かな学究活動を行える。
      そしてそこを卒業することで,社会から優秀な人材と認めてもらえる。


    大学を選ぶとは,どこのコンビニやガソリンスタンドを行きつけのものにするかというのとは,まったく違う。
    大学の競争力の圧倒的部分は,教育の質・水準の高さである。これに比べれば,「教育サービスの充実やその他付加価値」は無視できる。(この辺の計算感覚をもたない執行部をもってしまった大学は,不幸だ。)

    なぜ弱小私学が「全入学時代」を臨んでバタバタするかというと,「教育の質・水準の高さ」を競争力とできないからだ。そのような競争力を生むシーズをもっていない。よって,「教育サービスの充実やその他付加価値」で紛らわすしか手が無いということになる。

    「教育サービスの充実やその他付加価値」の正しい位置づけ・重みづけのできない国立大学法人は,「顧客中心」という理解で「教育サービスの充実やその他付加価値」を重点政策に掲げ,大学の大事なシーズを自ら壊すことをはじめた。 すなわち,本来なら教育・研究にしっかり向けるべき力を,「開かれた大学」「地域との連携」「学生支援」「広報」「生涯学習教育」「国際交流」等を標題とした雑務に分散した。


    つぎつぎと雑務がつくられることについては,これに加担する教育論・学校論のタイプについても (「諸悪の根源」の意味合いから) ここで押さえておいた方がいいだろう。

    仕事をどのような構造の中に位置づけてとらえるかというとき,つぎの2タイプが出てくる:

        O. オブジェクト → ファンクション
        F. ファンクション → オブジェクト

    例えば,教員が行う「学生支援」の場合,各教員が自分の平生の指導に「学生支援」を埋め込むのは Oタイプ。「学生支援」の委員会を立ち上げ,「学生支援」の内容をカテゴリー化し,各カテゴリについて教員に指示を発するのは,Fタイプ。O は雑務をつくらないが,F は雑務をつくる。

    もともと,大学の教員は,「開かれた大学」「地域との連携」「学生支援」「広報」「生涯学習教育」「国際交流」等を自分の仕事のうちにもっている。 法人化後の大学の「大学改革」は,F の発想で,これらを雑務にする。
    こうして,大学はいまやこんな有様に:

      スタッフの数を増やすわけではないのに,
       執行部はせっせと雑務をつくり,下に降ろしてくる。
       いったい担当者のあてがあってやっているのか !?