Up 「これが大学の授業か !?」 作成: 2006-08-05
更新: 2006-08-05


    大学のレジャーランド化を推進する側は,自分の行っていることが「大学のレジャーランド化」であるとは思っていない。 大学改革であると思っているし,正しい道であると思っている。

    実際,「レジャーランド化」の手法になる「授業内容の平易化」「実務指向の特設授業」「社会人講師」等は,彼らがはるか以前から自分の授業で用いているものであって,いまになって始まったものではない。ついに自分の方法が全般に採用されるようになった,という思いがあるだろう。

    このような教育方法は,自分自身のところで収まっている限りは,さほど問題になるものではない。 彼らにおいて問題になるのは,自分の世界を勝手に一般に拡げることだ。 ──「授業内容の平易化」「実務指向の特設授業」「社会人講師」等を推進する全学システムを勝手につくる。
    しかし,一部でとどまっていたものが全体に拡げられると,大学の変質が起こる。 いまの場合は,「大学のレジャーランド化」だ。


    「大学のレジャーランド化」に歯止めがかからない理由として,大学の授業が教員の裁量になっているということがある。 授業が教員の裁量であることは,大学が大学であるための基本要件だ。 しかし,これが適切に運用されるためには,教員個々の良識 (見識の高さ) が求められる。

    学術的な基準が相当はっきりしていて,これによってチェックがかかるような学科の場合は,教員の自由裁量にも自ずと歯止めがかかる。 一方,そうでない学科では,最悪野放図になる。「これが大学の授業か !?」というのが現れてくる。


    「大学のレジャーランド化」は,「これが大学の授業か !?」でつくられる。
    典型的には,社会人特任教授を使った「これが大学の授業か !?」。

      社会人特任教授を差別しているのではない。 ──社会人を用いて「これが大学の授業か !?」をつくる大学側の知性/知力を,ここでは問題にしている。


    「これが大学の授業か !?」を量産する「大学のレジャーランド化」は,反面,大学における大学論の無さを示している。 「大学とは何か?」「大学の授業とは何か?」という根本的な議論,堅実な研究が無いのだ。


    (註) 「これが大学の授業か !?」を「大学のレジャーランド化」関連で具体的に挙げるものなら,物議を醸すのは必定。 そこで,しばらく前からあって誰の授業でもないものから,「これが大学の授業か !?」の例を一つ挙げるとしよう。──「情報機器の操作」だ。
    これは,「コンピュータ/基本アプリケーションを操作できなければ,勉学上どうしようもない」ということで一括指導にしたもの。本来,単位を定めるような授業科目ではない。