Up 要 旨 作成: 2006-09-11
更新: 2006-09-11


    国立大学の法人化における「大学破壊」をこれまで論じてきたが,さてこの「大学破壊」は何を行うことによってとどめることができるのか?

    一旦始めてしまった破壊は,とどめることが困難である。戦争がいい例。「やり直しは焼け跡から」というのが常のようだ。

      もう一つの例:
      「ゆとり教育」の学習指導要領は,学力低下の現実を実際に突きつけられて改められた。この間,「学力低下」「学習習慣の欠損」「自己対策における家庭格差」という被害が進行した。「ゆとり教育」が含意する被害は,わかっている者にははじめからわかっていたし (実際,容易に論理的に導ける),「ゆとり教育」の進行中にも「こんなのはだめだ」の論は続いた。しかし,「学力低下」が如実に見えるまで「ゆとり教育」は進められた。


    しかし,とどめる努力をやめるわけにはいかない。 大学破壊を見てこの破壊をとめようとするのは,大学人の務めである。 (気後れ・傍観もまた「大学破壊」である。──実際それは,モラル・ハザードという「大学破壊」。)

    そして,人の始めた破壊をとどめ得るものは,<理>をおいて他はない。 すなわち,「進めているものは破壊であり,改めるのが早いほど被害は少なくて済む」を説く<理>しかない。