Up 大学論/大学道を立てる 作成: 2006-09-11
更新: 2006-09-11


    国立大学の法人化が「大学破壊」の相で進められている現実は,反照的に,大学人に大学論が持たれていないことを明らかにした。

    実際,法人化以前には,大学人に「大学とは何か?」「大学道とは?」という問題を課す大きな契機はなかったと言ってよい。大学は大学人にとってあたりまえの環境で,自分のことをやるだけでいちおう済んでいた。 地球的環境破壊が如実になる以前には地球が環境として人々の問題にならなかったのと,同じである。
    しかしいまこの環境が壊されるようになって,「大学とは何か?」「大学道とは?」の問題を立てる必要が出てきた。そして,まともな大学論がないことに気づくことになる。


    大学論/大学道の論考は,単純なものにはならない。
    いまは<大学=営利企業>論が主流になっていて,顧客中心主義でやることがいいことだになっている。


    しかし,これが成り立つわけがないことは,少しまともに考えればわかることだ。──翻って,いまは「少しまともに考える」さえも無い時代ということになる (集団ヒステリー)。

      研究者としての大学教員は,企業の製品開発をしているのではない。卑近な意味の「役に立つ・立たない」から離れたことをやっている。大学の研究とはこういうものであり,企業利益を生むもの/生むことを目指したものでは端からない。
      特に,「産学連携」は大学研究の特殊な部分で成り立つものであって,「産学連携」を目指して研究の設計し直しをやり出したときには,大学から研究がなくなる。

      また,<大学=企業>論が立たないことは,大学教員が個々に異種専門家であって配置転換/人事異動を企業戦略にはできない (通常の企業戦略が企業のシーズ潰しになってしまう) という点をとらえてもわかる。


    集団ヒステリーの集団ヒステリーたる所以は,「少しまともに考える」が起こらないということだ。したがって少しまともに考えればわかることも,改めて逐一押さえていくことが必要になる。

    法人化の「大学破壊」を批判する論の主流は,問題を特定の<悪>や<愚>に帰そうとするものであるが,これは間違いである。 法人化の「大学破壊」に特定の<悪>や<愚>は存在しない。結局のところ,全体が<愚>なのだ。 (ただし,責任をとらねばならない者はいる!)
    したがって「大学破壊」への対策は,全体の<愚>への対策であり,「全体が<賢>になる」をゴールとする対策でなければならない。このような対策は,唯一,<賢>のあり様を示す大学論/大学道を立てることである。