Up 教育論/教育行政の「波」を知る 作成: 2006-09-10
更新: 2006-09-10


    失敗体験を数多く積んでいれば,それだけ失敗から免れやすくなる。
    他人の失敗経験を知識としてもっていることも,失敗から免れるのに大いに役立つ。 そこでわたしたちは,歴史を勉強したり,各種情報収集に気を配る。

    組織の失敗は,「組織の失敗の構造/メカニズム」についての無知から発することが多い。
    組織の失敗の構造/メカニズムは,失敗によって自ら知ることになる。しかしこれが,組織に伝承される知にならない。 たとえば,配置転換/人事異動,世代替わりによって,失敗体験が途切れる。──すなわち,失敗が<忘却>される。


    教育論/教育行政には「波」がある。 いやゆる実質陶冶と形式陶冶(一般陶冶) の間を周期的に行き来する波である。 コース設計で言えば,教科縦割りと教科横断(コアカリキュラム・共通科目) の間を周期的に行き来する。

    この「波」の原因は,詰まるところ,上に述べた<忘却>である。

    実際,学校教育は,文科省(文部省) の節操のない教育方針の変更に翻弄されてきているが,この教育方針の変更は教育論の「波」と重なっている。
    役所仕事では,配置転換/人事異動,世代替わりで,失敗が忘却される。担当者は,その時代の雰囲気に乗って教育方針を立てる。 ちなみに,「時代の雰囲気」を現す役割のものが,中央教育審議会委員である。(参考:第3期中央教育審議会委員 http://211.120.54.153/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/meibo/05083101.htm)

    このように,教育方針は,「教育理論」ではなく「その時の人」が主導している。よって,当然,時代によって大きくぶれる。そして,「一方の極で失敗すると対極に転向する」という形に結局なるので,実質陶冶と形式陶冶の間の周期的運動を示すようになるわけだ。


    教育論/教育行政の「波」を知識としてもっている人は,大学人においても存外少ない。
    わたしの場合は,数学教育担当で,そして数学教育では実質陶冶と形式陶冶の間の行きつ戻りつが顕著になるので,教育論/教育行政の「波」をいやでも知識として持つことになる。逆に,このような機会をもたない人は,「波」を知らずに/意識せずに過ごすことになる。

    教育論/教育行政の「波」を知らない人には,現前の教育論/教育行政が「かくあるべし」に見えてしまう。そして,この「かくあるべし」に従う。 時に,「大学破壊」に他ならない「かくあるべし」に従う。


    したがって,「大学破壊」をそれと知らずに行わないために,大学人は教育論/教育行政の「波」の知識をもつことが必要である。
    「波」を知るとは,歴史を知るということである。
    実際,「大学の計を長いスパンで考える」は,歴史を知ることではじめてできること。 歴史を知らない者に「大学の計を長いスパンで考える」はできない。──そもそも考える手がかりがない。

      ちなみに,現前の教育論/教育行政が「かくあるべし」に見える者に,「大学の計を長いスパンで考える」はできない。──論理の上から「できない」: 実際,「かくあるべし」の者が「大学の計を長いスパンで考える」は,<論理矛盾>である。