Up 「大学の授業」の軽視 作成: 2006-08-05
更新: 2006-08-18


    社会的部署 (社会的装置) としての大学の役割は,学問の担当である。
    大学は,学生の学力を高めることを苦労して行う。
    この苦労を厭うとき,「授業のアミューズメント化」が起こる。
    特に,学生の学力低下傾向に際し,教員・授業の側からこれに順応するという形で,「授業のアミューズメント化」が起こる。

    「授業のアミューズメント化」の全体的雰囲気の中で,「大学の授業」の軽視が醸成される。


    さらに,「大学の授業」の軽視に,「大学のレジャーランド化」の経営・営業観が重なる。
    学問担当の場に人は多くはやって来ない。また,やって来た者にも,学問はハードルが高い。
    学問が大学敬遠の理由になってしまうという,いまの状況!
    そこで,大学の経営陣・営業部は,<遊ばせる>ことを考える。<学ばせる>から<遊ばせる>に方向転換する。
    大学を「遊ばせる」空間にする基本要素は,授業を「<学ばせる>プログラム」から「<遊ばせる>プログラム」に変えること。

      注意 : ここで謂う<遊ぶ>は,「<学ぶ>は<遊ぶ>に通ずる」のように言うときの<遊ぶ>ではない。 あくまでも,日常語的卑近な意味での<遊ぶ>である。


    北海道教育大学札幌校では,最近,つぎのことが教授会で提案された:


    ここには,「大学の授業」の軽視が,二重の意味で認められる:

    1. 水準に関する軽視。──誰でも受けられる。
    2. 意義に関する軽視。──「顧客」に合わせて授業をつくってよい。
                   (それでも「大学の授業」である。)


    「授業公開講座」においては,授業者は外部受講者を「いない者」とするのが正しい。( 「授業公開講座」) しかしこれは,授業公開を大学の「商品」に使おうとする経営意図には合わない。 また授業者においても,見学者にそっぽを向き,見学者を居心地悪くさせる授業は,気が引けるだろう。
    結局この提案は,実質,つぎの要求になってしまう:

      外部受講生に合わせた授業を特設しなさい

    ここでは,「大学の授業の公開」が,
      「公開講座」
      「大学教員が別の場所に出かけていき,一般者や小中高生に授業する」
    と同じように受け取られている。

    同タイプのものとして,つぎのようなのもある:
      中学生の1日体験入学

    「授業公開講座」や中学生が体験する「大学の授業」は大学の授業か? となるわけだが,「大学の授業」の概念が大学人の中で既に壊れてきているので,今日このような問いの形は問いとして通用しにくくなっている。


    「大学の授業」軽視の先は,「大学のレジャーランド化」。 「大学のレジャーランド化」は,大学の生き残りを考えた経営者や営業部から最初に出てきたものではない。 それは,
      「授業のアミューズメント化──学生を<遊ばせる>授業へ」
    という形の「大学の授業」軽視において,既に進行していたのである。